1990年代の半ばから後半にかけて、eコマース、ネット関連ソリューション、コンテンツプロバイダなど、ITをビジネスドメインとする起業が相次いだ。中でも、渋谷に集まるネットベンチャーは“ビットバレー”と総称され、日本の起業スタイルに大きなインパクトを与えた。20代から30代の経験の浅い起業家でも、アイデアさえあればベンチャーキャピタルから資金を調達し、スピード公開を果たすことも可能になった。“ビットバレー”の草分け的存在と言われるベンチャーが渋谷で起業したのは1995年前後。1994年グローバルメディアオンライン(=旧社名インターキュー、表参道→桜丘)、1995年「デジタルガレージ」(富ヶ谷)、「オン・ザ・エッジ」(港区→渋谷)、1996年「インディゴ(現インディゴホールディングス)」(初台)、1997年「ホライズン・デジタル・エンタープライズ」(道玄坂→神山町)、1998年「サイバーエージェント」(赤坂→北青山→道玄坂)など。
1998年、松濤にオフィスを構えた「ネットエイジ」代表の西川潔氏が1999年3月、ネットイヤーグループ(桜丘)代表の小池聡氏の草案を基に「Bitter Valley構想」を宣言。西川氏は同社が発行するメールニュース「週刊ネットエイジ」で次のように謳っている。「時は世紀末、100年に一度の大社会変革期の真っ最中。そして、その重要な主役がインターネットであることに気づいた若いベンチャー企業が東京・渋谷付近に続々と集積している。おそらくその土地の風が未来有為の若者を惹きつけるのであろう。渋・谷=Bitter Valley、そう、アメリカにSilicon Valleyがあるなら、 日本にはBitter Valley がある」。その後、Bitterを短縮し、デジタルを意味するBitとして、Bit Valleyと改名。時を経ずして“ビットバレーアソシエイション”が誕生、毎月1回、“ビットスタイル”と題した交流会が開かれるようになる。あっという間に“ビットバレー”の名が知られるようになり、ネットベンチャーの聖地と化した。“ビットバレー”誕生を契機として、1999年を「インターネット元年」と呼ぶ関係者も多い。
ネットエイジ ネットイヤーグループ ビットバレーアソシエイション2001年6月に発表された「東京のネット企業実態調査」(富士通総研)によると、東京都区部には2001年2月時点で1,541社のネット企業が存在していた。1,000社以上が1990年以降に創業、中でも「ネットベンチャー・ブーム」に触発されて1998年以降に創業したベンチャーが目立つ。都心5区(千代田、中央、港、新宿、渋谷)に都市部全体の7割近くとなる1,061社が立地し、中でも港区と渋谷区には都区部全体の4割が集中している。年間売上高は1億円~5億円の企業が最も多く、アンケートでは前年度の売上と比較して7割近くの企業が増収と回答している。渋谷にネット系・IT系ベンチャーが集積した要因には、IT事業を支える若くて創造的な才能を持つ人材が多く集まっていた場所であったことが挙げられる。特にネット系クリエイターはトレンドに敏感であることが求められるため、オフィスが情報発信地に立地していることは有利となる。
前出の「東京のネット企業実態調査」によると、フルタイムスタッフの平均年齢は34歳以下が全体の8割弱を占めている。多くのITベンチャーは経営、スタッフとも若い。自分のライフスタイルを重視する彼らは、絶えず時代の空気を吸収しながら仕事に反映するため、ネット企業、ドットコム企業で働く若者にとって、最新の映像や音楽を供給する環境が充実している渋谷は魅力的な場所となる。渋谷界隈のベンチャー企業でアルバイトをしていた学生が、卒業後、ワンルームマンションを借りて起業する例は数え切れない。アフターファイブにふらっと遊びに行くことができて、カジュアルな洋服で仕事ができるワークスタイルが可能な街が渋谷なのである。ネットベンチャーは経営者が若く、自由闊達な雰囲気の社風が多い反面、業務は深夜にまで及び、徹夜も少なくない。若い社員の定着率を上げるためには環境の良い場所にオフィスを構えることも必要条件である。IT企業が「ネット環境があれば交通の不便な場所でも起業できる」のは事実だが、ビジネスの根幹である顧客開拓、人材の確保、同業他社とのコミュニケーションなどが重要であることは既存のビジネスと代わりなさそうだ。
もともと渋谷周辺には、NHKをはじめ大手レコードメーカーや芸能プロダクションが集積していることもあって、出版・編集やテレビ番組の制作関連会社、その他広告、アパレル、マーケティング等の業務に携わる企業が多かったことは“ビットバレー”誕生の影の電動力となった。
渋谷に、多くのネットベンチャーが集積したことは、今振り返ると当然の流れであったとも言えそうだ。
ベンチャー投資ブームは過去何度か起っているが、1999年秋から2000年春まで「ネットバブル」と呼ばれる、ネットビジネス関連ベンチャービジネスに対する投資ブームが起った。1999年後半から始まった投資ブームのきっかけは、ソフトバンク孫正義氏の後押しで、1999年6月に発表された米国ナスダックの日本上陸のインフォメーションであった。これに刺激された東京証券取引所が1999年12月、ベンチャー向け新市場「マザーズ」を開設。社歴が浅く、売り上げも高くない企業の株式が公募価格の何倍もの初値を付けるのを見て、ベンチャーキャピタルやエンジェル(個人投資家)がインターネット関連ビジネスに一斉に投資を始めた。2000年6月には「ナスダック・ジャパン」も取引を開始する。2000年3月9日、日本株として初めて1億円の大台に乗せるなど、まさに市場は熱狂していく。、まさに市場は熱狂していく。
2000年に多くのネットベンチャーが上場した。急速に拡大する期待感を背景に、価格は急騰するが、業績が上がらず、ビジネスプランに実態がないことが判明すると突如、株は下降線を辿り始める。可能性を見込んでIT事業へ設備投資し、マーケットへ進出した大手メーカーもB to Cの伸び悩みなどの“IT不況”に陥ったことは周知の通り。IT元年2000年春以降、東証マザーズ、ナスダック・ジャパンに上場したネットベンチャー株の低迷を契機に「IT関連企業」への熱い支持は失速する。いわゆる「ネットバブル崩壊」を迎え、後にマザーズは一部の投資家から“ITバブルの温床”と揶揄される。実際のビジネスでも、レスポンスの確認が不確かであることや、長引く不況で広告主が媒体選別を厳しくしたこともあり、バナー広告など広告収入に頼っていたコミュニティサイトは苦戦、サイトも乱立するなど、会員数だけが魅力であったサイトは存在意義を失い、資金調達難に陥ったネットベンチャーも多い。資金調達力をアップするために「マザーズ」や「ナスダック・ジャパン」に上場することで「駆け込み寺」となったケースも少なくない。
中でも、ネットベンチャー「クレイフィッシュ」の社長解任劇は記憶に新しい。2000年に日本企業として初の日米同時上場(米国ナスダックと東証マザーズ)を実現、最年少で株式上場を果たし、時代の寵児として一躍有名になった元クレイフィッシュ社長の松島庸(いさお)さんが4月11日(木)、創業から光通信の重田社長との出会い、そして一連の社長解任劇へとつながる騒動を赤裸々に綴った「追われ者 こうしてボクは上場企業社長の座を追い落とされた」(東洋経済新報社刊)を出版した。当時社長であった松島さんは2001年、大株主である光通信との対立が激化し、退陣に追い込まれる。自身は今、社員のいないエム弐拾八株式会社の代表を務める。
「250名の会社のトップにいたので落差はあるが、サラリーマンにならずに起業した。『一連の社長解任劇は何だったのか』と問われることが多く、区切りをつけるつもりで本を書いた」。松島さんは「短い期間にとても濃い体験をした」「小説のようなことが実際に起きてしまった」と苦笑する。「全体的には、大反省文。若くて何も知らなかったので招いたこと。これから起業する人の役に立てば嬉しい」と話すが、一方では、価値観が異なる企業や経営者同士がパートナーシップを組んで行うビジネスの危険性、汲み取れば回避できた役員との確執など「思い出したくないことも思い出してしまった」とも。また、ベンチャーキャピタルについては「株式について対等に話ができるなら問題ないが、彼らに飲み込まれると怖い」「お金以外のことにも口を出したいが能力がなくできないキャピタリストも多い」と、ベンチャーキャピタルが併せ持つ両面を指摘する。
クレイフィッシュ設立時の1995年、約半年ほど神南にオフィスを構えていたが、「"ビットバレー"は好きではなく、当時の渋谷には"うわつき感"があった」と、振り返る。「靴の底が磨り減るくらい足で動く行動が大切。キーパーソンはアクティブに歩き回っている」と、バーチャルでビジネスが進展しないことを示唆する。これから起業するベンチャーに対しては「生半可な気持ちで起業してはいけない。するなら若いうちに行動に起こす。そうすれば失敗したとしても損は少ない」。その言葉には、"騙された金額オブ・ザ・イヤー"と自身を自虐的に笑い飛ばす松島さん独自の説得力がある。現在、自分の裁量で自由にビジネスを展開していることで精神的な余裕が生まれたが、「向う3年くらいは注目してもらえる反面、生半可なことはできない」「コンサルの案件もあり、打ち上げ花火を上げて本当に資金が集まってしまいそうで怖い」と、気を引き締める。現在、ネットベンチャーから距離を置く松島さんは「出る技術はほとんど出尽くした。あとはバージョンをアップするのみ。インフラはまだ不十分だが、無料で使えるインフラが整備されれば無料ベースの企業は危うい」と、IT関連ビジネスを俯瞰する。
メールを利用したビジネスモデルの企画・運営を行う「トライコーン」は1997年に設立し、1999年に浜松町から道玄坂に移転した。代表の波木井(はきい)さんは「うちあわせの度に渋谷まで出向くのなら、いっそ渋谷に本社を構えよう」と考えたという。「当時、ネットベンチャーがテナントで入居するというだけで、ビルの大家さんがストックオプションを欲しがったと」いう逸話もあったという。“ビットバレー”の熱が高まっていた最中である。
波木井さんは「“ビットスタイル”の例会にも参加したが、3回目以降は投資家やベンチャーキャピタルの参加が増え、ネットブームがおかしな方向に向かっていると感じ、自然に参加しなくなった」と話す。2000年2月、六本木ベルファーレを貸し切って開かれたビットバレーの交流会“ビットスタイル”にソフトバンクの孫正義氏が3000万円も費やしてスイスから飛行機をチャーターして駆けつけ話題となったが、この例会を最後に“ビットスタイル”は一般の参加を廃止する。波木井さんは「今でもビットバレーアソシエイションのメルマガは届くが、例会は開かれていない。ただし、オープンに会うことがなくなっただけで裏では頻繁に会っている経営者も多い」という。例会が行われなくなった理由は、ビットバレー熱が冷めたことと本業が忙しくなったことなどが挙げられるが、波木井さんは「渋谷離れも確実に進んでいる。実績を積めば渋谷に会社がある意味は失せるし、本社がどこにあっても構わない」と、転出する企業が増えてきたことを示唆する。
トライコーン株式会社賃貸オフィスビルの仲介、ビルマネジメント、コンサルティングなど、IT関連企業の物件を数多く手がけてきた「三幸エステート」の山本さんは「利益の上がらないネットベンチャーはすでに渋谷から撤退している」と話す。増収増益を果たした一部のベンチャーが渋谷マークシティやセルリアンタワー(桜丘)、インフォスタワー(桜丘)に移転した時期と並行して2000年~2001年には「いわゆる“ネットバブル崩壊”後、渋谷周辺で50~60社、渋谷だけでも少なく見積もっても10社以上は撤退している」(山本さん)という。このように2年の間にネットベンチャーを取り巻く環境は大きく変化した。“IT不動産需要”も今は昔。都心のオフィスビルはIT関連企業の低迷と外資系企業の撤退、汐留や六本木など「新天地への移転」の集中もあり、空室率が上昇しているのは事実であるようだ。
三幸エステートこれらの撤退劇は、“ネットバブル”以降、短期間に企業買収、提携、合併の再編成が急速に進んだことの証明でもある。国内でもベンチャー企業を中心に株式公開を待たずに事業を大企業に売却するケースが急増している。「インフォキャスト」(大阪市)が「楽天」(目黒)の子会社になったのをはじめ、先行するベンチャーが立ち上げたジョイントベンチャー「ピーアイエム」が「ヤフー」に事業売却するなど、話題は事欠かない。再編が急速に進展したのは、事業の寡占化が急速に進んだことで、拡大路線を断念し、大手の傘下に入るベンチャーも登場したからである。
当初ネットガレージが運営していた検索エンジンの「インフォシーク」は2000年12月、楽天の傘下に入った。その楽天は新料金の導入をきっかけに、楽天市場の加盟店の3分の1が契約解除を検討するなど軌道修正の必要性が生まれたため、既に発表済みの「楽天市場」の新料金体系の一部値下げに踏み切る。これは実質的に値上げとなる新体系の導入に反発した加盟店に配慮したもの。当初の案では、これまでシステムの利用状況にかかわらず月額5万円だった料金を、売上が月額100万円を超える店舗については、超過分の2~3%を定額分に加えて徴収。さらに販促用の電子メール配信システムの利用については、月に10万通を超える分について1通当たり0.5~2円を課金。資料請求やプレゼントなどの受け付けについても、月に7,000件を超える分に対して1件当たり2円を徴収する、というものだった。
楽天市場一方、4月15日より「システム利用料導入」を実施するのが「Yahoo!オークション」。参加費に加え、出品する際の「出品システム利用料」と、出品したオークションが落札された際の「落札システム利用料」、入札者がいるオークションを出品者が取り消した場合に発生する「出品取消システム利用料」などを徴収する課金制を導入する。さらにヤフー(表参道)は3月、同社の有料コンテンツ事業を支える新たな決済サービス「Yahoo!ウェレット」を開始。1円単位での月額課金や都度課金が可能なサービスで、料金の支払いはクレジットカードに加えてネット銀行などの口座振替を選べる。有料コンテンツ事業を収益の柱にするために課金プラットフォームの導入は不可欠と見られている。
Yahoo! オークションネットオークションサイト2番手の「ビッダーズ」は、4月2日よりオークション落札時にかかる成約手数料を現在の5%から2.5%に引き下げた。また、新規登録ユーザー1人につき300円相当のポイントを支払うアフィリエイト・プログラムも開始する。運営するディー・エヌ・エー(幡ヶ谷)は、ヤフー「Yahoo!オークション」追撃に向け強化策を表明。また、BIGLOBE、アット・ニフティ、OCN、So-netなど、提携している大手プロバイダーとの共同キャンペーンも実施する。
ビッダーズ ディー・エヌ・エーすでにビジネスモデルが通用しなくなったベンチャーは消え去った。前回のバブル期と同じように、“簡単に儲かりそうだ”“インターネット財閥になりたい”という動機で参入してきた一獲千金の起業家は早い段階でスポイルされてしまった。つまり、ネットバブルはベンチャーの“リトマス試験紙”であったと言える。しかし、アントレプレナーはベンチャーキャピタルやエンジェルからまとまった額の投資を受けて起業するケースが多かったので、会社が赤字になったとしてもしたたかに生き残っている。“敗者復活”が困難とされる日本だが、企業風土はやや変わりつつある。むしろ倒産やIT事業から撤退した会社で働いていた社員を経験値の高い人材として迎え入れる気運が広がっているくらいである。現在、生き残っている起業家は意外に堅実である。現在では、渋谷IT系ベンチャーの6割が黒字であるという調査結果も発表されている。“ネットバブル”を体験し、逆風にさらされた世代やそれ以降のベンチャーの“起業のモチベーション”や“使命感”が異なってきたからである。成功=「金銭的に大金持ちになること」を掲げる拝金主義は表舞台から成りを潜め、今日では既存の企業同様、すべてのベンチャーが「社会への貢献」をミッションに掲げている。“インターネット財閥”を豪語すること自体、すでに時代遅れという気運が漂っている。
ひとつのビジネスモデルが成功しても「それだけでは3年が限界」とされているITベンチャー。次から次へとイノベーションを生み続けなければ、企業の寿命は極めて短い。経営者にパーソナル・ミッションとともに、イノベーションを生み続けるだけのビジョン、戦略、体制、資金の有無が問われている。「失敗から学ぶ、成功への教訓」も、渋谷系ベンチャーならではしなやかな吸収力で、強力な原動力となりつつある。