1980年代半ばまで、DJといえば「いろんな話題をはさみながら音楽番組を進行する担当者」のことを指していた。“disk jockey”を略したDJは、もともとディスク(レコード)のジョッキー(操作者)の意味。“ブロードキャスト先進国”アメリカのラジオ局でスタートし、スタジオでリスナーからのメッセージを読んだり、音楽の話題を語ったりしながらレコードをかける“DJスタイル”は、1960年代後半、日本にも上陸する。“局アナDJ”やフォーク歌手がニッポン放送や文化放送など、AM民放ラジオ局を舞台にDJとして活躍する。今日「パーソナリティー」や「ナビゲーター」と呼ばれるラジオ番組の出演者も、かつては「DJ」と呼ばれていたのである。
今日の「クラブ・ミュージック」と切っても切れない関係にあるDJだが、現在のようにディスコやクラブを舞台にし、サンプラー・マシンでサンプリングした複数の音を組み合わせ、構成したものを観客に聴かせ、観客を踊らせる“DJスタイル”が生まれたのは、1970年代。ダンス・ミュージックの本場ニューヨークで現在につながるディスコ、クラブが生まれたのは1960年代末。70年代後半には「サタデーナイト・フィーバー」に代表されるディスコ・ブームが生まれ、ダンスシーン、音楽シーンは飛躍的にロック、ポップスと肩を並べるほどポピュラリティーなものになるが、当時のDJは最新レコードやヒット曲をノンストップ・ミックスでかけ、聴衆を踊らせるだけの存在であった。
今日のDJスタイルである「サンプリング」を中心とした音楽の実践、いわゆる「ヒップ・ホップ」のルーツは、一般に1970年代半ば、ニューヨーク・サウスブロンクス地区のアフロ・アメリカンやヒスパニッシュのコミュニティの若者たちが生み出したとされている。当時のゲットー(スラム街)では荒廃した10代のギャングたちの抗争が繰り返され、ドラッグが蔓延していた。コミュニティの若者たちが娯楽のひとつとして2台のターンテーブルに同じレコードを乗せ、曲の中の気に入った部分だけを繰り返し鳴らして踊ったことが「ヒップ・ポップ」の起源と言われている。
1970年代半ば、ジャマイカ移民のDJ、クール・ハークはシンセサイザーを買えない黒人層が自分たちで面白い音を出す工夫をするうちに見つけ出した技法のひとつ、レコードをこすり合わせる「スクラッチ」や、同じレコードを2枚用意して両者を往来することによって前後に音をつなぎ合わせる「ブレイク・ビート」を先駆けて実践した。そのDJスタイルは、瞬く間にニューヨーク・サウスブロンクス地区の黒人たちに受け入れられる。「ヒップ・ポップ」はブレイク部分(リズムなしの区間)に差しかかると、自分たちのとっておきのダンスを披露するブレイク・ボーイズ(Bボーイズ)や、マイクを握った司会者が音楽に合わせて次回のパーティの告知や友人への呼びかけをする「ラッパー」、黒人の言葉遊びやスラッグをルーツに持つ「ラップ」と結合し、壁や地下鉄の車輌に絵を描く「グラフィックアート」やストリート・ファッションなどと複合しながら「ヒップ・ポップカルチャー」として拡大していく。
1976年、ニューヨークに3,000人収容のクラブ「パラダイス・ガラージ」がオープン。メインのDJを務めたラリー・レヴァンはソウル、ファンク、ディスコなど様々なサウンドを幅広くミックスし、芸術的DJプレイを披露。後に「ガーラ・クラシック」と呼ばれる。1977年、シカゴに誕生したゲイ・クラブ「ウェアハウス」に招聘された、ニューヨークのクラブDJフランキー・ナックルズは「ヒップ・ホップ」の影響を受けて、当時のディスコ、ソウル、ユーロ・ビートなどをミックスする一方、リズム・マシーンをDJプレイに組み合わせ、客の熱狂的な支持を受ける。影響を受けたシカゴのDJは、DJプレイの延長としてスタジオ・レコーディングを開始。ここにテクノロジーを駆使したリミックス音楽「ハウス・ミュージック」が誕生する。ハウス・ミュージックの「ハウス」の語源は、ゲイ・クラブ「ウェアハウス」から取ったものである。やがて1985年頃から、ハウス・ミュージックのレコードが市場に出回り、認知されていく。
「ヒップ・ポップ」ジャンルで、シュガーヒルギャング、グランドマスターフラッシュ&フュリオスファイブ、アフリカバンバータなどがヒットを飛ばし、1986年に発表されたランDMCの「Walk This Way」の大ヒットによって「ヒップ・ホップ」はひとつのジャンルを確立する。日本ではアナログからCDへと移行する時代にあって、アナログが生き残る素地を作ったのが、アメリカから上陸した「ヒップ・ポップ」に熱狂した若者で、彼らは生産が激減していたターンテーブルを捜し求め、アナログ・レコードを買い求めた。これが1986年当時、東京を中心に起った「第一次DJブーム」である。
ハウス・ミュージックは並行して1980年代の半ばからイギリスに中心を移す。イギリスでは1980年代後半に「テクノ」が脚光を浴び、ヒップ・ホップ、ハウス、テクノ、ジャズなどを消化、融合しながら、今日の「クラブ・ミュージック」の系譜が生まれる。色濃く黒人音楽の特徴を持っていたハウス・ミュージックは、イギリスに渡って白人の支持を受けることによって、人種に関係のない、ワールドワイドな「ポップ・カルチャー」へと変容したのである。アーティスト自身がライブ演奏するのでなく、レコードという音源をもとに、サウンドシステムを構築する今日のグローバルな“DJスタイル”は、このようにして完成する。
今日、アメリカでプレスされる「ヒップ・ポップ」のアナログ・レコードのほとんどが日本に輸入されている。また、その内の約半数が宇田川町のレコード店で販売されている。宇田川町にあるレコード店によると、「アナログ・レコードのほとんどが日本に輸入されている要因は、宇田川町のレコード店が特定のアーティストやレコードメーカーの商品を買い占めているから。買い占め、独占販売を行うことによって競合がひしめくレコード店集積地での差別化が実現できる」という。宇田川町のレコード店は地方のレコード店への卸しや全国のユーザーに向けての通信販売など流通を整備し、独自の発展を遂げる。レコード店の顧客は「ヒップ・ホップ」などブラック・ミュージックのファン、ダンサー、DJ、クラブ、バーなど飲食店スタッフなど限られているが、彼らは「買う」「聴く」だけでなく、「プレイする」、クラブで「遊ぶ」層と重複する。
クラブは現在、渋谷に集積している。クラブだけ約20店。これにダンスフロアが狭く、バーをメインとする「DJバー」を加えると、合計30店を超える。10年前には数えるほどしかなかったクラブだが、現在、宇田川町、円山町に集中しているほか、南青山、恵比寿、代官山にも開店している。アナログ・レコードの集積地がそのままクラブの集積地へとつながっているのは、レコードを買い求める客がそのままクラブの顧客となっていることを示している。一方、渋谷の楽器店の数も40店と集中している。ターンテーブルやミキサーを楽器として扱うDJにとって、渋谷は音源を捜す場所であり、器材を揃える場所であり、プレイの場でもある。
1986年に起った「第一次DJブーム」を経て、ヒップ・ホップ・カルチャーやクラブ・ミュージックが浸透し、1980年代末には、若者が集まるスポットはポピュラーなダンスサウンドを中心に幅広い層に受け入れられてきた「ディスコ」から、ヒップ・ホップやハウスなど「クラブ・ミュージック」をメインとするクラブへと移行し、人気のハコも六本木から渋谷へ移行する。レコード集積地である渋谷に、ヒップ・ホップ、ハウス、テクノ、レゲエ、ジャズなど各ジャンルに絞って音楽を流す“小バコ”のディスコ(後に「クラブ」と総称)が出現したのである。それらのクラブでは、ただ単に音楽を流すだけでなく、最先端の音楽から埋もれたサウンドまで聴衆に聴かせたいサウンドを選び出す選択眼や知識、聴かせて見せて楽しませるスキルを持ったDJが必要とされた。この時期に、80年代にアメリカでDJの修行をし、帰国した若者が、今日、DJと認識される職業の先駆けとなる。
桜丘に店を構えるDJ機器専門店「POWER DJ'S」(経営/池部楽器)チーフマネージャーで、自身もDJを務める一柳さんは「海外では“モバイルDJ”と呼ばれる“出前専門DJ”が職業となっているが、日本ではまだプロDJは、数えるほどしかいない。それでも自宅で楽しむ在宅DJ、人前で披露するDJを合わせたアマチュアDJの裾野は広がった」と話す。一柳さんに現在求められている「客を呼べるDJ像」を挙げてもらった。
一柳さんは「職業としてのDJを目指す人は増えたが、クラブやパーティ主催者からギャラをもらっているDJには、アルバイトで生計を成り立たせるか、本業を持っていて週末だけDJとして出演している人も少なくない」と語る。また、DJの抜擢から選曲、クラブの進行や動員まで担う「オーガナイザー」もビジネスとしては成り立たないという。「オーガナイザー的な仕事は、現在、イベンターやプロモーターが担っている」とも。
一柳さんは「DJスタイルはすでにクラブシーンを超えたところまで広がり、すでに若者の生活に定着している。80年代半ばに“第一次DJブーム”の洗礼を受けた世代もすでに40代。店長や経営者になり、レストランやブティック、美容院など、自分の店に空気のようになじんでいるDJブースを設置したとしても、何も不思議ではない。当店にもたまに異業種から注文がある。DJスタイルの普及は、業界としては喜ばしいことだ」と語る。
池部楽器DJ専門店の老舗で新品と中古品の売買を営む「PACO」(渋谷)のセールスアドバイザーでエンジニアの片桐さんは「顧客は初心者からプロまで様々だが、最近の傾向としては趣味でDJを始めるサラリーマンが増えたことが挙げられる。DJはメカと音楽が融合した、ゲーム感覚にあふれた遊び。ターンテーブルやミキサーなどアイテムは似ていても、純粋なオーディオファンの嗜好とはまったく異なる」と語る。同店では“スクラッチ・セット”(ターンテーブル2台、ミキサー)129,800円がよく売れている。
PACO/TEL03-3409-33132001年9月に「マルイワン渋谷」8階にオープンした「VESTAX TO THE CORE」は、人気ブランドベスタックスの直営店で、DJスタイルをメインストリームに引き上げるべく、作られたニューコンセプトショップ。ハードウェアの販売はもちろん、店内に設けたカッティングブースは予約すれば講習が受けられるほか、自作のデモテープやDJミックス・テープをオリジナルレコードにすることもできる。同店では店内で「DJスクール」を設け、機材の購入を計画中の人やDJセットの購入者に開放している。次回は5月25日、「スクラッチ初級~中級編」。また、インストアライブやモバイルDJのデモンストレーションも積極的に開催されている。同フロアには「VESTAX TO THE CORE」の他にレコード店やファッション関連のショップが集まり、“クラブ・カルチャー”の発信地となっている。 同店の片江さんは、前出の「PACO」で店長を務めた後、ベスタックス社の国内営業を経て店長に就任。同店の顧客は10代後半から25歳を中心とするが、「彼らはレコード・プレーヤー自体を新鮮に感じる世代。かつてのレコード文化を知っている層と融合して客層が幅広くなり、DJスタイルは文化として定着した」と片江さんは説明する。1986年第一次DJブームの後、プレイヤーやターンテーブルの需要は落ち込んだが、ここ数年、再び販売数は上昇している。「店に来る普通の子がごく当たり前にDJをこなす時代。かつて、若者がこぞって自宅でギターの練習をした時代があったように、今日ではDJセットを自宅に持っていることは自然になりつつある。彼らはDJセットを楽器のように操る。一方で、そのDJセットはすでにインテリアの一部にもなりつつある」と、ハードウェアの需要が伸びたことが、そのままDJ人口の増加につながったこと、さらにインテリアへと進展していることを示唆する。
しかし、プロとなるとごく絞られる。同店の顧客でプロは1%。これに友人のパーティなどでDJを務める顧客を加えると10%に上がる。片江さんによると、一般の人間がプロDJになるためのルートは次の2タイプに分類されるという。
一方、片江さんは“宇田川町レコード村”からやや距離を置く同店の立地を「最も原宿に近い場所にあることで、裏原宿のファッションとリンクする層を取り込むという意味でも、好条件の立地」という。ストリート・ファッションの差別化として誕生した裏原宿に集積するショップが生み出した“裏原宿カルチャー”は、クラブ・カルチャーとリンクし、独自の“リミックス文化”を生み出し、さらにファッションと音楽と空間の融合を先駆けて実践し、音楽プロデューサーでDJの藤原ヒロシやショップのオーナーNIGOなど“カリスマ”を輩出した。片江さんは、「DJスタイルの裾野が広がったことで、ヒップ・ホップとは異なるジャンルから新たな文化が生まれつつある。例えば在宅DJのように、クラブとリンクすることなく、楽器としてのDJセットを楽しむ層が誕生した。一方、スラムの少年たちのスタイルを模した、かつての小汚いストリート・ファッションもすでに激減しつつある。ヒップ・ホップのDJが発していた汗臭いDJとは異なり、DJもスタイリッシュになってきた」と話す。さらに片江さんはかつてディスコやクラブの創生期に足繁く通った音楽ファンが30代から40代になり、子供であふれるクラブから離れ、新たな遊び場を探していると加える。「クラブのイベントでなく、カフェで開かれる大人のパーティが増えている。そこでは音楽経験の深いオーナーが考える、くつろげる空間が作り出され、クラブと異なるDJスタイルが誕生しつつある」とも加える。
ベスタックスクラブ・カルチャー・マガジン「FLOOR」(編集・発行/ティーワイオードットコム、本社:渋谷)編集長の猪股さんは「ターンテーブルやミキサーなどDJ機器を販売するメーカーのターゲットは、在宅DJに絞られている。リーズナブルな価格に設定しているのも一般向けだから。アナログ・レコード店はターンテーブルで音楽を聴くターゲットに向けて絞っている。どちらもすでに固定客ができあがっているマーケットだ」と、“DJマーケット”を俯瞰する。「ヒップ・ポップは音楽のジャンルというより黒人のスタイル。日本ではスタイル先行型のファッションとして浸透し、やがて“ターンテーブルを持ってないとヤバイ”“レコードをまわせないとダサイ”という方向に向かったようだ」。そのトレンドは、雑誌や電波を通じて“DJスタイル”として地方にも普及したのである。
猪股さんは、プロのDJを以下の3タイプに分類する。
プロを中心とする“DJビジネス”は、音楽産業と飲食産業にまたがり、アーティストとなって“アガリ”を迎えるか、クラブを活動の場とするレギュラーDJとなって安定した収入を勝ち取るか、あるいはクラブとの交渉などプロデュースを行うオーガナイザーとなるか、いずれにしても“狭き門”であることは確かである。
FLOORDJが登場する店、DJブースを設置する店はクラブだけに限らない。DJスタイルは、近年クラブ以外の空間にも登場し、音楽がファッションやフードと密接につながっていることを証明している。2001年10月、恵比寿に開店したニューヨーク・スタイルのダイニング・レストラン「AOYUZU」では毎週金曜と土曜夜、ゲストDJとAOYUZU DJ’sによる「AOYUZU NIGHT」を開催し、「食」と「音楽」のコラボレーションを実践している。5月31日(金)には、沖野修也、田中知之(ファンタッスティック・プラスティック・マシーン)をDJに招く。
AOYUZU5月10日(金)、「渋谷マークシティ」イースト1階、元「セフォラ」の場所にオープンした「リステア渋谷」は、アパレルメーカーのルシェルブルーがプロデュースする人気セレクトショップ。店内にDJブースを設置し、約3分の1を占めるスペースをCD販売スペースに充てている。社員がDJを務めるほか、高下社長(40歳)自らDJブースに入ってレコードを回すこともあるという。ハウス、クラブジャズ、ボサノバ、ラウンジなど、絞り込んだCDのセレクションも高木社長が手がけている。今後はゲストDJのフューチャーも予定している。
同社プレス担当の金谷さんは「洋服をメインに据えたライフスタイルをトータルに提案するにあたって、音楽ははずせないものだった。音楽を通して空間と時間を提案していこうと考えた。店内ではショップのテイストでセレクトした音楽をかけている」と説明する。神戸本社のネットワークがあり、そこで生まれた人脈を通じてDJのネットワークも広がった。同社ではWEBでのCD販売も行っている。
リステア 渋谷マークシティ4月27日(土)、スペイン坂下にパルコが手掛ける飲食と物販の複合ビル「ZERO GATE」(宇田川町)が開業。地下には、日本初登場の“フーディング・レストラン“「LA FABRIQUE(ラ・ファブリック)」がオープンした。高品質のオーディオ機器を駆使し、日仏の先鋭アーティストの映像やオーディオ・ビデオプログラムを発信し、DJタイム(22時~)には日替わりのDJが登場し、アダルトな選曲で大人を楽しませている。
パリでここ数年、キーワードになっている“フーディング・レストラン“とは、料理はもとよりインテリア、スタッフのコスチューム、音楽などの要素を総合的に提案するレストランを指す。フーディング(FOODING)はFOODとFEELINGからなる造語で、フーディング・レストランは10年前にフランス人ジャーナリストが命名したもの。当時、フランスの伝統的なスタイルのレストランに対抗して、キューバ、ブラジル、中国など民族色の強いレストランが立て続けにオープンした。それらの店の特徴は、料理だけでなく、インテリア、スタッフのコスチュームにいたるまでアーティスティックでカラフルであることが挙げられる。さらに5、6年前からインテリア・デザイナーらがレストラン作りに関与し始め、2、3年前にパリでムーブメントになる。現在、パリでは約30店舗の“フーディング・レストラン“があるという。「LA FABRIQUE」(1998年、バスティーユで開業)は、このブームの先駆け的存在の人気店。その海外1号店が同店である。同店プレスの関澄さんは「料理はもとより、スタッフのコスチューム、インテリア、音響、ビジュアルを重要視している。エレクトリック・カルチャーの流れでムービーのインスタレーションなど、空間作りとして演出として展開している。また、絵画や写真の展示会も行えるフレキシブルな空間でもあり、それらを合わせてフーディング・レストランと言える」と説明する。
DJプログラムは日替わり。パートナーシップを組む「ボンジュール・レコード」と、当店支配人のイブ・ドゥ・ロックモレルが担当する。「ボンジュール・レコード」は代官山と新宿に店舗を構えると同時に、プロデュース業も行っている。現在、パリの本店から来日したレジデントDJが長期滞在し、週前半にプレイを行い、週半ばから週後半にかけては、日本で注目のDJをフューチャーしている。また、ヨーロッパで著名なDJを招聘するなど、他店ではできない独自の展開を見せている。特にフランスのクラブ・ミュージックがリアルタイムで聴けるプログラムは注目。「そもそもLA FABRIQUEはクラブの形態ではなく、ランチ&カフェタイム、ディナータイム、DJタイムという3つの顔を持つレストラン。DJタイムでも椅子やテーブルを全部掃けてダンススペースを設けるということはなく、着席もできるし、踊ることもできるという、来店者自身のスタイルで楽しめる空間」(関澄さん)。渋谷のクラブとは異なる文脈にある“DJスタイル”である。
ZERO GATE前出の「FLOOR」編集長の猪股さんは「今日では美容院であれ、レストランであれ、どんな店でも、音楽は大事な要素。音楽にこだわることは、オシャレであることの基本要素」と話す。「ダンス・ミュージックが好きで、聴き続けてきた大人が楽しめるクラブも登場してきた。『ラ・ファブリック』のような大人が楽しめる空間が登場した意義は大きい。クラブでなく、レストランでフランスの音楽文化を、しかも食事を楽しみながら味わうというのは新しいスタイルの提案。フランスにはファッションにしろ、アートにしろ、音楽にしろ、豊かな文化がある。クラブを卒業した大人が楽しめる空間は徐々に増えてくるだろう」(猪股さん)。
渋谷に集中するレコード店とクラブ。レコード店やクラブから発信するクラブ・ミュージックの浸透、ファッションとのリンク、カリスマの出現など、多くの要素が複合し、ポピュラーな存在になったDJ。しかし、プロとして活躍するDJはまだごく少数で、“DJビジネス”の顧客の多くはDJセットを自宅に構えてレコードをまわすことを趣味とするアマチュア“在宅DJ”である。彼らはレコードを購入し、サウンドシステムを構築し、パソコンを操るようにDJセットを操る。このようにDJの裾野が広がり、層が厚くなったことで“DJスタイル”は、その起源であるゲットーの黒人の自己表現から逸脱し、新しい方向へ進展した。ストリート・カルチャーやヒップ・ポップとリンクしない、スタイリッシュな“DJスタイル”も定着しつつある。さらに「モトネタ&サンプリング」の関係性は、音楽はもとより、ファッションやインテリアの分野にも容易に見い出すことができるが、これらもDJ感覚、リミックス感覚の産物。「サンプリング」や「リミックス」は、今日ではすべてのジャンルで使われる、ごく当たり前の手法。
一方、かつてディスコやクラブで遊び、もの心ついた頃から音楽のある暮らしを続けてきた30代~40代が店長や経営者になり、“DJブース”や“DJセット”のあるレストランやブティック、美容院を開店しはじめたことも容易に想像できる。職業としてのDJを選ぶことはなかったが、仕事場に“DJスタイル”を持ち込むことは難しくない。訪れる客も“DJブース”や“DJセット”のある店を自然に受け止めている。
“モバイルDJ”の活躍の場が広がるのに伴い、今後は、クラブという固定の“ハコ”だけがクラブ・ミュージックを楽しむ場所とは限らなくなる。また、子供に占領されたクラブから逃げ出した大人の中には、料理やインテリアに長けたレストランや、自宅のリビングルームの延長にあるようなカフェでくつろぎながらクラブ・ミュージックを聴きたいと願っている層も存在する。DJの守備範囲がぐんと広がる可能性が、ここから見受けられる。渋谷で進化する“DJビジネス”が、今後どのようなジャンルに“飛び火”するのだろうか。