特集

検証!「ヤマンバ」の登場と衰退
~國學院大學 講座「渋谷学」連動企画~

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■講座「渋谷学」でフォーカスされた斬新な主題

國學院大學は11月4日に創立120周年を迎えた。これを記念した学術事業の一環として同大が今年4月に開講した「渋谷学」は、多様な顔を持ち、日々変化し続ける街・渋谷を“科学”するもの。「渋谷学」の試みは2001年にスタートした研究会を母体としている。民俗学や歴史学、経済学などの教員が集まり、渋谷区や東急電鉄など行政と一般企業の関係者を交えて渋谷についての研究が進められていた。4月にスタートした「渋谷学」は学生だけでなく、一般の聴講を受け付けており、広く市民に開放するユニークな講座だけあって、現在、主婦や年配者、ベンチャー企業経営者、広告代理店、出版業まで他に例を見ないほどに幅広い年代、業種業態から聴講者が参加している。渋谷に拠点を置く同大学が中心となって、渋谷の情報を集積し発信することは、大学の個性を明確に打ち出すことにもつながっている。「渋谷学」は来年度も開講が予定されている。

國學院大學
國學院大學 國學院大學・授業風景

その「渋谷学」のカリキュラムのひとつで、渋谷を民俗学の対象にしたユニーク國學院大學・授業風景な講座が先頃開かれた。後期第4回のテーマは「ヤマンバの誕生と衰退-渋谷は創られる・渋谷の文化-」。同大文学部の倉石忠彦教授が担当した。

民俗学では、伝承(伝達+継承)により、文化の中に「連続性」が認められることが重要視される。従来は、日本の「村」社会を対象とすることが多かった学問だが、経済成長に伴い「村」社会が徐々に解体し“都市化”するにつれ、都市の存在を無視することができなくなり、1980年代には「都市民俗学」と呼ばれるジャンルが登場した。現在ではあえて都市民俗学といわなくても、民俗学においては都市を研究することが普通のことになってしまった。そして、むしろ「現代民俗学」と表現される現在に対する関心を強調することが多くなった。講座を担当した倉石教授はヤマンバへの関心を「呼称に注目した。ガングロからヤマンバへと呼称が移行し、そこに民俗学的意味を見出した。ヤマンバへの関心は、ガングロ・ブームが去った今日ではなく、ブーム当時から持ち続けていた」と説明する。大学の講座といえばアカデミックなタイトルが多いが、「渋谷学」は渋谷を対象としているだけに今日的テーマが多く、タイトルだけを見てもビジネスマンや業界関係者にも興味深い。倉石教授の講座は特に伝承の山姥とヤマンバ・ギャルとの共通点や渋谷センター街に「異界性」を発見するなど、時空を超えたものとの関連性が紡ぎ出されており、渋谷ならではの「都市学」をひもとくには格好のテーマとなっている。

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■ヤマンバ登場の時代背景

1998年、突如、渋谷に登場し、様々なメディアで取り上げられたガングロ。年齢は10代半ば~10代後半。ボリュームゾーンは東京、千葉、埼玉、神奈川などに住む15歳から18歳までの女子高生とされた。髪は茶髪あるいは白髪で、顔面は真っ黒。原色の衣服にミニスカートをはき、厚底ブーツもしくはサンダルを履き、集団行動を基本とする。日焼けサロンで焼き上げた顔の黒さが異様に目立つことから、顔黒(ガングロ)と命名。「肌をガンガンに黒く焼く」ことから「ガングロ」と呼ばれるようになったという説もある。目と口のまわりを白く隈取りしたような特殊なメイクは黒と白のコントラストを放ち、“パンダメイク”とも称され、特異性を見せつけた。特筆すべき点は、見る者、特に男性に明らかに違和感や嫌悪感を与えるメイクであったこと、日本のメイク史には前例のないメイクが脈絡なく登場したこと、集団性が顕著であったことなどである。全盛期にはさらに黒さを競うように「ゴングロ」まで登場した。「ゴングロ」とはガングロよりさらに焼けている様。ゴンは「超」の最上級を表わす接頭語である。

ガングロが登場した要因は諸説あるが、まず、ガングロ誕生の前に遡り、渋谷に顕著に見られた現象面から1990年代をたどり、時代背景を検証してみる。

■渋谷で見られた現象とガングロの登場史
1991-1992年 渋谷にチーマー出現、チーマーの抗争激化。渋谷でルーズソックスが流行。日焼けサロンに注目が集まる。陸サーファーが復活。
1993-1994年 コギャルの誕生。援助交際が社会問題に。チーマーの終焉。コギャルの細分化が始まる。
1995-1996年 コギャルが首都圏で一般的になり、地方にも飛び火。コギャルの間にPHSが普及。ルーズソックスが一般化する。援助交際が全国区へ 波及。渋谷では日焼けサロン、カラオケに出入りする女子高生が話題に。アムラー登場。「Cawaii」創刊。ストリートマガジンが実施した読者モデル制の浸透。
1997年 渋谷に「髪に花を飾るロコガール」出現。
1998年 ロコガール・ブーム。「ガングロ」という呼称が登場。厚底ブーツ、金髪が登場。109「エゴイスト」が全国区に。カリスマ店員が話題。
1999年 センター街のガングロが話題に。一方では、美白の鈴木その子が脚光をあびる。ガングロの茶髪に白髪も登場し、「ヤマンバ」「ヤマンバ ・ギャル」という呼称が登場。パラパラブーム。ディスコやクラブにガングロ登場。
2000年 「ゴングロ3兄弟」が人気。「egg」のカリスマ読者モデルのブリテリ、柾川めぐみ(マサメグ)がガングロのファッションリーダーに。 「egg」休刊。
2001年 春、ガングロ消滅。

ガングロの全盛期は1998年~2000年。わずか3年の間に渋谷から消えたことになる。果たして彼女たちはどのようにして誕生し、どこへ消えたのだろうか。

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■白と黒。メイクとヤマンバの相関関係

ガングロが独自のメイク・アイテムを買い揃えたのは、主に「マツモトキヨシ」や「100円ショップ」「ドン・キホーテ」などであった。可処分所得の少ない彼女たちは、日焼けサロンの利用代金とケイタイの通話料を支払わなければならないため、洋服はリーズナブルなものを選び、工夫してコーディネートしていた。時にバッグだけは一点豪華主義を貫くなど消費スタイルとしてはメリハリがある。ガングロが登場する要因のひとつに挙げられるのが、「Cawaii」や「egg」などストリート系雑誌の隆盛。読者が街角でスナップ撮影され、モデルとして登場。このようにして一瞬にして読者側から見られる側へショート・カットできるストリート系雑誌という「装置」が、ガングロたちをしてますます特殊で目立つメイクに走らせたという見方も根強い。

日本では長い間、白い肌が尊ばれてきた。日本のメイク史の文献によると、白い肌を尊ぶ考え方が発達し始めたのは、中国から白粉のつくり方が伝わって以降とされている。700年代末には日本でも白粉が普及し、支配階級で使用されたと想像される。白い肌を美とする傾向は平安時代に入り、より明確になっていく。絵巻の世界では肌の色の違いが身分階級の違いとして具体的に表現されている。肌色の美意識は時代とともに多様化していく。1960年代には若者たちの間で日焼けが受け入れられるようになり、さらに1980年代後半になると、海外旅行が一般化し、日焼けに優越感がなくなったことや紫外線の問題などがあり、日焼けを嫌う時代とタンニングマシーンによって人工的に日焼けする時代が並行する。つまり肌の色が自由に選択できる時代が到来したのである。

メイクを核に据えてファッションやボディ、表情など様々な文化にまで研究の幅を広げる「ポーラ文化研究所」が発刊する雑誌「化粧文化」の2000年号に「ガングロ」に注目した特集記事がある。同研究所は早くからガングロに注目し、研究に着手していた。「ポーラ化粧品本舗」(本社:五反田)広報部係長の掘さんは「イタリアの上流階級の、いわゆる貴婦人の間では、ほどよく日焼けをして金のジュエリーやホワイトゴールドのアクセサリーを身につけ、白いリップやアイシャドーをほどこすメイクが流行ったことがあるが、イタリアではほどよい日焼けは経済的な余裕の象徴。日本のガングロは突然、脈絡もなく発生している」と説明する。

当時、ガングロ女子高生にグループインタビューを行った「化粧文化」のコメントには「心の隙間を埋めるためにファッションやメイクに凝ってみる、という図式が浮かんでくる。(中略)黒肌が持っている健康的イメージを目指しているという感じはしない。また、白髪というのは年配者を意味するものだ。現在の生活に満足できず、気持ち的に疲れ、若いのに何年も生きてしまったような気がする自分に半分イヤ気がさしている。そんな気持ちがヘアーメイクに現れている気がするのだが…(後略)」と記されている。掘さんは「ガングロ少女たちは決して自分のメイクが素敵だとは思っていなかった。ただ仲間はずれにされたくない、というグループ所属の意識が高かったのだろう」と、グループへの帰属意識が仲間を表示する特殊なメイクをほどこしたと分析する。さらに「ガングロが登場した当初、メイクは穏やかだった。しかし、徐々に激しさを増していった。ヤマンバのようにメイクが過剰になったのは、リーダーがメンバーの忠誠心を試す意味もあったし、周囲から特別な目で見られることでさらに帰属意識を高めたのではないか」と進める。「それでも不自然な状態は長続きしない。飽和状態を迎え、バブルのように消えた。極度の日焼けはシミになるばかりか、歳を重ねるごとに老けて見られるなどメリットはない」(掘さん)。

一方、「ポーラ文化研究所」が1999年10月に発刊した「肌色をもっときれいにする本」では「美白とガングロ」にページを割き、逸早くガングロに言及している。興味深いのは、短大生と大学生に行ったアンケートの結果。黒い肌の利点として(1)健康的に見える63% (2)個性的にできる15% (3)欠点を隠す11% (4)若く見られる4% となっている。さらに「欠点を隠す」に触れ、ガングロに傾斜する女性の心理を分析する。「白くなったとしてもそれだけでは満足できず、今度は目鼻立ちまでもが評価の対象になる。このように何段階もの努力をしたところで得られるものが少ないとしたら、白肌で勝負するよりもむしろ違う方策を考えたほうが得」、「白一辺倒になりがちなまわりに対して、大きな異議申し立てをして、自分たちの個性を主張していると理解できる。その意味で、結果的には肌色の価値観の多様性を表現し、主張しているように見える」、「グループのアイデンティティとしてのガングロとも解釈できる」と、様々な角度からガングロ化を分析している。

ポーラ化粧品本舗
イメージ 化粧文化

「化粧文化」No.40(ポーラ文化研究所)

■ファッション、音楽、日焼けサロンとガングロの相関関係

渋谷エリアで最大規模のフラ・ショップ「マウナロア」(恵比寿)を経営する「エムエムジェイ」代表の白杉さんは1999年まで渋谷センター街に10代の女の子をターゲットとしたアンテナ・ショップを開いていた。ショップを展開した時期はまさに“ガングロ・ブーム”の前夜から全盛期である。白杉さんはトロピカル・テイスト、ロコガール・テイストを演出する小物としてハワイアンの必須アイテムであるレイを販売。またたくまにレイは色黒の彼女たちの髪に飾られ、1998年に「ロゴガール・ブーム」を呼び起こした。一部では「ガングロ・ブーム」の呼び水になったという見方もある。白杉さんは当時の若者の2大トレンドを挙げ、少女たちの「ガングロ化」を次のように整理する。

(1)この時期、陸サーファーがブラック・ミュージックの影響を受け、ダンス系に移行。サーファー志向の強い色黒の若者もストリート系のヒップホップに目覚め、黒人に対する憧れが広がっていった。女の子たちもその影響を受け、その一部が人気雑誌「egg」や「Cawaii」に後押しされ、顔の黒さを増していった。

(2)「第3次パラパラ・ブーム(1998年)」の余熱が冷めない頃だったので、同じファッション、同じダンスをしていても、集団の中でさらに目立つメイクとして独自に進化していったのではないか。

「ガングロ・ブームの以前から、渋谷にはコギャルとの差別化を図ろうとする、数少ないがガングロ・メイクの女の子たちが徘徊していた。ブレイクする何年か前からファッションとしての予兆はあったようだ」と、白杉さんは話す。「ガングロ」と命名される以前に現象としてあったことを示唆する証言でもある。

「SOLE渋谷店」(宇田川町)ほか都内に26店舗、全国に約80店舗のタンニングスタジオを経営する業界最大手の「サンライズ・ジャパン」(本社:南平台)のソラリオン事業部・鳥居さんは、ガングロが街にあふれた頃を苦々しくふりかえる。「当時は、日焼けサロン=ガングロとマスコミに報道され、著しくイメージが低下した時期。特に渋谷店などは中学3年生や高校1年生といった子供たちがあふれていたが、我々からすれば迷惑だった」。日焼けマシーンはもともと日照時間の少ない北欧などヨーロッパの主要都市で日照不足による体の不調症状の改善や、体力強化のために開発された人工光線による日光浴マシーン。つまり、医療器具として開発されたものである。しかし、日本に上陸した際にファッションの一環としてPRされたため、「本来の使い方とは異なる利用がなされ、1980代末に一気にブレイクした」(鳥居さん)。その後、ガングロ・ブームが訪れ、イメージの低下に危機感を抱いた同社が業界に呼びかけ、「日本ソラリウム協会(JSA)」を設立。欧米各国のタンニング協会、光線科学の専門家とコミュニケーションを図る一方、JSA加盟店による週1回の会議を開くなど、光線浴による健康法や安全なタンニング方法、紫外線の生理作用などの正しい知識の普及活動を行っている。

鳥居さんは「タンニングスタジオの客層は地域によって大きく異なり、渋谷は若い方が多いが、例えば隣の恵比寿では若い利用者は少なくなり、五反田ではサラリーマンが主流となる。どちらにしても現在、どの店舗にもガングロはほとんど見当たらない」と現状を語る。さらに「ガングロが流行った際に男性にも黒くなりたいという願望が芽生えたという興味深いレポートがある。事実、現在では利用客の8割が男性で、経済的にも余裕のある方が多い。精悍に見られるようになりたい、明るく元気に見られたい、という男性の願いがあるようだ」と、男性マーケットが拡大した要因を分析する。また、同社では大手フィットネスクラブにタンニングマシーンを納品していることから「健康的に日焼けしたいという健康志向の高い男性はフィットネスクラブでタンニングマシーンを利用する傾向にあり、日焼け人口はひそかに増えている。しかも夏だけでなく、利用客は通年タイプに移行している」(鳥居さん)という。「ヤマンバの時代もあったが、今となってはプラスになっている。ケイタイの通信費を払うのに四苦八苦する10代をターゲットとした日焼けサロンが相次いで店を畳んだのは自然の流れ。マーケット自体は多少縮小したかもしれないが、逸早くマーケットのシフトチェンジを行った企業は今日、安定したビジネスを行っている」と、日焼けサロン業界を俯瞰する。

サンライズ・ジャパン 日本ソラリウム協会

「週刊プレイボーイ」2000年5月2日号では、当時の「渋谷ギャル・ヒエラルキー」を次のように紹介している。あえて肌を黒くしない色黒指数=0を「ギャル」とすれば、その下に、金髪・茶髪等なにかにつけて中途半端でヤマンバたちから嫌われている色黒指数=1の「チョイギャル」が生息していた。一方、「ギャル」の上には、パンダメイクには至らない色黒指数=5の「ガンギャル」が、さらに上には白髪、エクステンション、パンダメイクで色黒指数=8~9の「ゴンギャル」が存在した。そして頂点には、時にペンキ等も使うとされる色黒指数=10の「ヤマンバ」が存在し、中でも「ブリテリ・ふみっこ・アコ吉」の通称「ゴングロ3兄弟」が、雑誌「egg」等を通じてカリスマ的人気を集めていた。

■ヤマンバの民俗学的分析

当時の雑誌からメイクに関する記事を集計すると不思議な相関関係が浮かび上がる。「美白」と、「小麦色」「ガングロ」「ヤマンバ」という「黒肌」系のキーワードの掲載量を検証してみると、美白のピークを迎えた1999年1~3月頃、「ガングロ」が登場し、2000年7~9月頃の「ガングロ」の低迷とともに秋からは「美白」が再浮上している。交互に登場する「白」と「黒」の対比が時代を象徴していて興味深い。ちなみに、「ヤマンバ」という俗称を最初に紹介したのは1998年9月1日号の「SPA!」だった。当時の誌面では「ヤマンバ・ギャル」別名「ブタギャル」とあることから、この段階ではまだネーミングが完全に定まっていなかったことも読み取れる。

それでは、進化した「ガングロ」が何故、「ヤマンバ」と呼ばれるようになったのだろうか。ここで伝承の中の「山姥」を検証する。伝承の中では、山姥は金太郎の母親であった。山姥は山に住む特別な力を持つ存在で、1751年の文献では角がはえ、牙の出た山姥の絵が残っている。鬼婆である。江戸時代、寛政後期に歌麿が描いた金太郎の母=山姥の絵は母性を備えたやさしい表情で描かれ、その後は一貫して美女として描かれることとなる。倉石教授によると「ヤマンバは近世以来の出版物等の文字によって表象化された山姥像とは異なり、別の伝承がヤマンバの命名に影響している」と説明する。人里に下りて人を食らう、異界からの使者・山姥は数多くの民話や昔話に数多く登場する。「渋谷のヤマンバは感覚的に伝承性の強い民間伝承として蓄えられた文化が噴出したもの」と、ヤマンバの誕生と照らし合わせる。「伝承的な山姥が出現するのは“ハレ”の時で、場所は“市(いち)”。山姥は市に出て買い物をした。市は、特定の時に集まってきて物を売り買いする場所のこと。人が集まりやすく物資を交換しやすい所に市ができた。つまり市は里の人と山の人や、そうした所への物資の出会いの場である」。山の世界と里の世界が交じり合う境界領域に登場するのが山姥。ここで姿が異なる山姥とセンター街の少女たちが結びつく。そして「ヤマンバと呼ばれる異様さは、白が美しいとされる美の秩序を崩した」と、少女たちの革新性にも関心を寄せる。

色白、黒髪、赤い唇といった美女としての一般的な認識とは相容れない「ガングロ」。あえて一般的な美意識と反対方向で目立つことを選んだ「ヤマンバ」誕生の背景には、「受身から攻撃へ転じる少女たちがそこにいる。里の文化と相容れない山姥の特性でもある。しかし、どこにでも出現するわけでなく、渋谷のセンター街であった。普通の生活の場ではなく“ハレ”の場、つまり日常とは異なる時空ではじめて異端も認められることになる。センター街のような盛り場では、匿名性が保証される点と、盛り場なりの秩序がある点も、彼女たちの出現に大きく影響したという。

■渋谷“センター街”の異界性

反秩序的なファッションのヤマンバも、渋谷センター街では安心して身を置くことができる。渋谷全体が非日常化しているわけでなく、センター街に特化して見られた理由は次のように説かれる。「二つの異なる秩序が出会ってつくり出されるもうひとつ境界的な空間、秩序がセンター街に相当し、そこでは一般的に認められている美的感覚とは異なるファッションをしても認められる。異界性を持つ山姥が入り込めるようなところである」。さらに境界的な存在であるヤマンバは、少女から大人へと移行する境界的な女性のあり方とも見られるのである。

倉石教授はヤマンバが渋谷のセンター街で数多く見られたことから、「民俗学的に渋谷センター街を捉えると、“ハレ”の場ということになる。異界との境界的な入り合いの場であり、異界の者で異様であっても異様なりに受け入れられる場」と定義し、渋谷という“盛り場”が持つ特異性に着目する。「異端者は言葉を変えれば“かぶき者”でもある。センター街は異界性が強く、幅も深さもある。センター街は、ある意味で“年中お祭り”状態であるから、“かぶき者”が普段から登場するのも自然な成り行き。しかし、ヤマンバ・ギャルに遭遇すると、無意識的に山姥のような異界の存在を連想し、畏怖する。ヤマンバ・ギャルがあえて異様なメイクを施し、センター街を闊歩したのは無意識的であっても、何かの意志表示であったのかもしれない」と、センター街とヤマンバの相関関係と彼女たちが自らをメディア化したのかもしれないという見解を展開する。当時“ヤマンバ”や“ヤマンバ・ギャル”と、あえて異端をあらわす呼称が付けられたのも「潜在的に異質なもの、特異な外見のものを排除するような心理があったのかもしれない」と分析を加える。

倉石教授によると、ヤマンバはその後、2000年夏頃「アマゾネス」へと発展を遂げるが、その攻撃性が受け入れられず一気に衰退へと向かった。

マスメディアが作り出す“劇場社会”とはひと昔前にネーミングされた現代社会や都会を指す言葉だが、渋谷はその“劇場社会”の「表舞台」である。ここでは多くのスポットが照らされ、異質なものも報道性や話題性があればピンスポットを浴びることができる。今、改めて振り返れば、“非日常性”を帯びた渋谷は、毎日が“非日常的=ハレ”の場所であることから「ヤマンバが登場したとしても何ら不思議ではない」と、民俗学的に捉えることができる。

彼女たちがあえて大人や異性に好かれないメイクを施したのは、美白化への抵抗、やさしさを強制させる女性性の否定、あるいは大人化への抵抗を表す“記号”であったのかもしれない。あるいは、ほんの一瞬の間だけなら“カリスマ”になれることを自ら体験しようとしたのかもしれない。ただ、経済的なアプローチで捉えると「表舞台」から消えたヤマンバたちは、渋谷の消費リーダーたりえなかったとも言い表せる。センター街を自己表現の舞台としてのみ捉えるヤマンバは、渋谷で新たな消費スタイルを確立できなかったのである。

講座「渋谷学」誕生の背景には、動き続ける渋谷の記録を集約しておきたいという関係者の願いもあった。過去の資料や文献もさることながら、動きが早く、行き交う情報量が膨大な渋谷だけに、その時々で大きなインパクトを与えた最近の事象についても、記録や資料が散逸しがちで、結果として十分に検証されないまま、時が過ぎて行くケースも少なくない。「ヤマンバ検証」は、渋谷の歴史を語る上で必須ではないかもしれないが、ほんの数年前にマスメディアを通じて大きな影響を与えた事象として改めて捉え直すことで、都市の情報発信性を解き明かす手掛かりとなる可能性は大きい。連続する文化の中で渋谷を捉えようとする民俗学的アプローチの今後の成果に期待したい。

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