Bリーグ・サンロッカーズ渋谷(以下、SR渋谷)の清水太志郎選手が4月21日、14年の選手生活に幕を下ろした。
1981(昭和56)年8月6日宮崎県生まれの清水選手。筑波大学卒業後、大塚商会が母体のバスケットボール部「大塚商会アルファーズ」(2004年~2005年)、bjリーグ「埼玉ブロンコス」(2005年~2010年)、「宮崎シャイニングサンズ」(2010年~2012年)、「大分ヒートデビルズ」(2012年~2015年)、「ライジング福岡」(2015年~2016年)を経て、Bリーグ発足の2016年にSR渋谷に入団した。
昨シーズンはアキレス腱断裂によりシーズン中盤で戦線離脱したが、「けがで引退はしたくなかった」と今季も現役を続行した。一方、「自分では違和感なく走れているつもりでも映像を見ると引きずっているように見えるなど、自分のイメージとかけ離れている実感があった。加えて、試合に出ていないと試合勘が圧倒的に無くなる、パフォーマンスが落ちて行っていると感じた」と今季での引退を決めた。「次の世代にバトンタッチという思いが一番強いかな」とも。
引退試合となった対千葉ジェッツ戦では「最後の試合というのはあるが、ゲームのトーンをセットする意味で」(伊佐勉ヘッドコーチ)スターティングメンバーとして出場。「太志郎さんのアシストを決めたい、気持ちよくシュートを打たせてあげたい」と試合に臨んだベンドラメ礼生選手が第1クオーターからパスを回し、「無意識にボールミートに行っていた」という清水選手が3ポイントシュートをきっちり沈めると場内は大歓声に包まれ、ベンチの選手やコーチたちも喜びを爆発させた。この日は、Bリーグ3シーズンで最も多い7本の3ポイントシュートを放ち、その雄姿を見せた。「前半は普段通りしっかり打ちにいった。後半は、ボディーバランスやキャッチの感覚などから普段だったら打たないだろうなというシュートはあったが、気持ちで打っていた」と振り返った。
試合後に行われたセレモニーでは、チームメートがデザインしたという清水選手の背番号と「#ThankYouTA1」の文字をプリントしたTシャツを選手たちが着用。清水選手の地元・宮崎の高校出身でオフシーズンには清水選手が主催する子ども向けのバスケクリニックにも参加していたベンドラメ選手が「アキレス腱断裂から今季の頑張りは刺激を受けたし、コートに出たら誰よりもハッスルする姿はいろいろな人にパワーを与えたのでは。太志郎さんみたいに皆を引っ張っていけるような選手になりたい」とチームを代表して清水選手にメッセージを贈った。セレモニーでは埼玉ブロンコス時代の先輩で、現在新潟アルビレックスBBのヘッドコーチを務めている庄司和弘さんから「大好き」とのメッセージと花束も届いた。
それまでにこやかな表情を浮かべていた清水選手が涙をこぼしたのは、宮崎県立小林高校時代の恩師で、現在IPU・環太平洋大学バスケ部監督の森億(もり・はかる)さんの登場。「高校から始まっているので、いろいろなことを一瞬にして思い出してポロリしちゃった」と言う。直後には息子2人が登場するサプライズも。「家族にも『頼まれても全部断れ』と言っていたので絶対に出てこないと思っていたんですけど、断れなかったか…」と苦笑いを浮かべた。長男が涙を流しながら「格好良かった」と読んだ手紙は会場を感動に包んだ。
5クラブでプレーをしてきたが「どのチームでもいろいろあって、バスケット的に苦労人だと思っている。でも、日本のバスケの変わり目に選手としてプレーできたのはうれしい」と振り返る清水選手。その中でも、SR渋谷での3年が「一番バスケットに集中できた。すごく楽しくて、充実していたかな」と話し、SR渋谷の選手たちについては、「皆いいやつで、しっかり自分は持っているけどまだまだ流されることも多い。可能性はあるが、精神的にはまだまだかな」と笑う。「結果を残さなくてはいけない世界で、個人でもチームでも結果を残せなかったのは本当に悔いが残る。ただ、(今後は)彼らが背負って頑張ってくれると思うので見守っていけたら」と期待を込める。
今後については、「本当に何も考えていない」と話すが、「やっぱりバスケに、広く言えばスポーツに関わる仕事がしたい」と笑顔を見せる。地元愛が強いことから「単純に宮崎には帰りたい」と言うが、「宮崎に仕事があるか分からない」とも。