2016年に建て替えのため閉店し、約3年間休館していた「渋谷パルコ」が今秋、「渋谷公園通り」に帰ってくる。
1973(昭和48)年に開業し、それまで区役所通りと呼ばれていた通りに「公園通り」と名付けた街の立て役者は6月18日に渋谷区役所で会見を開き、「新生」渋谷パルコを11月下旬に開業すると発表した。パルコ牧山浩三社長は「どうしてもそこに行かなくてはいけない、街を散策しながら最後にたどり着く場所にしたい」と力を込め、再始動する渋谷パルコを「唯一無二」の次世代型商業施設と表現した。
特定の年齢層や性別にターゲットを絞らず、地下1階から10階(一部を除く)までの商業ゾーンに展開するのは、約180の多様なショップ。5つの要素「ファッション」「アート&カルチャー」「エンターテインメント」「フード」「テクノロジー」を軸に据えるフロア編成は、一見シンプルに見えて、幅広い客層を取り込む仕掛けが随所に盛り込まれている。
パルコ再開に向け公園通り周辺の新規出店などの動きが表面化すると同時に、本年度は100年に一度とされる渋谷駅周辺の大規模再開発も、2020年夏に迫った東京オリンピック・パラリンピック開催を前に、一つの「山場」を迎えると言えそうだ。共に秋に開業を控える渋谷駅直上の超高層施設「渋谷スクランブルスクエア東棟」、旧東急プラザ渋谷跡の「渋谷フクラス」をはじめ、三井不動産がホテルや商業施設と一体で再整備する「宮下公園」も3月に完成。再開発の目玉が次々と客を出迎え始める。
2007年に検討を始め、2015年に都市再生特別地区の決定を受け進められてきた渋谷パルコの建て替えも、再開発事業という意味では同じだが、大きく異なるのは、駅直結・至近の立地でなく、自らが名付けた通り、渋谷公園通りの「坂の上」で放ってきたその独自の存在感だ。
渋谷パルコの復活がもたらす街の変化とは――。公園通りの変遷とこれからを特集する。
令和の時代を迎えた今年からさかのぼること400年以上前。公園通りの歴史を語る上で欠かせない「代々木公園」周辺には、江戸時代は大名らの下屋敷が点在し「お屋敷町だったと聞いている」と、「渋谷公園通商店街振興組合」理事長の小松原一雄さんは話す。
その後、第二次世界大戦中は旧陸軍省の「代々木練兵場」、戦後は米軍用地「ワシントンハイツ」として活用された一帯が大きく変わるきっかけになったのは、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催だった。五輪開催に伴う区画整備で街は近代化し、周辺には国立代々木競技場や選手村、後に「渋谷公会堂」となる重量挙げ競技会場などが造られ、「国際放送センター」として後のNHK放送センターも建設された。
戦前から地元で米店を営む家に生まれ、幼少期から公園通りに住み続けているという小松原さんは「オリンピック以前は、八百屋や魚屋、飲食店などあくまでもここに暮らしている人向けの店のほかに、そんなに店はなかった」と明かす。「道玄坂や宮益坂も含め、坂の上の方は栄えていなかった。街も今のように明るくはなく、百貨店も夕方で閉まっていた時代」と、当時を振り返る。
通りには五輪開催の翌1965(昭和40)年、現在で言うファイヤー通りにあった渋谷区役所が、公会堂の隣に移転。移転後の区役所跡に建てられたのが、東京電力の広報施設「電力館」(現シダックスカルチャービレッジ)と、隣接する東京電力渋谷支社だ。公園通り入り口の交差点角地には1971(昭和46)年、丸井渋谷店が全館開店した。
区役所通り(1970年~71年、画像提供=パルコ)
東急電鉄が1934(昭和9)年に東横百貨店(現「東急百貨店東横店」)を創業し、戦後「玉電ビル」(1954年、現「東急百貨店東横店西館」)、「東急文化会館」(1956年、2003年閉館)、「東急百貨店本店」(1967年)などと急速に出店を進め、すでに「お膝元」としていた渋谷エリアで、西武グループが仕掛けた一連の開発は、1968(昭和43)年「西武百貨店」の開業に始まる。
駅近辺で百貨店や娯楽施設などの開業が続く中、坂状の立地で商業面では当時まだ大きな開発のなかった区役所通りは「時間割」などの喫茶店やピザハウスとしても人気を博した「ジロー」などの飲食店が点在していたものの、「現在の『渋谷=繁華街』のイメージとはほど遠かった」と前出の小松原さん。
そんな通りの景色を一変させたのが「渋谷パルコ」の開業だった。
1973(昭和48)年6月14日、区役所通りの坂の中腹に、渋谷パルコ(パート1)がオープンした。
イタリア語で「公園」を意味する「パルコ」は、代々木公園に近い立地に加え、人が集い楽しんだりくつろいだりする公園のような場を目指し開業。当時西武グループ傘下で指揮を執っていた増田通二元会長の文化戦略の下、キャッチコピー「すれちがう人が美しい 渋谷公園通り」を引っさげ、すでに人の流れがある場所ではなく、「人が訪れたくなる街」として、施設のみならず街そのものをデザインした「まちづくり一体型」の開発で人の流れを生み出した。
写真左=「渋谷パルコ」(1973年・大成建設撮影)、写真右=通りのシンボルの一つにもなった赤い電話ボックス(以上、画像提供=パルコ)
新たなまちの創出と同時に、情報発信も大きな柱の一つに据え、館全体を「メディア」化する戦略にも打って出た渋谷パルコは、館内に「パルコ劇場(旧西武劇場)」を開設。センセーショナルで個性的な作品も数多く世に送り出し、その求心力で多くの若者を通りに引きつけた。パルコはその後、1975(昭和50)年に「パート2」、1981(昭和56)年に「パート3」を出店し3館体制で「パルコ文化」を根付かせていく。
開業時にパルコが付けた名称が呼び水となり、後に正式に改名された「公園通り」。周辺の通りも次々と名称を変えていき、渋谷に「道の街」のイメージが広がったのもこの時代だ。井の頭通りとパルコをつなぐ坂は「スペイン坂」、パルコと「東急ハンズ」(1978年開業)の間の坂は「オルガン坂」、そのオルガン坂から南に伸びる小道が「SING通り」などと、ユニークなネーミングでも人々の好奇心を誘う動線が続々と出現。公園通りを中心にファッションや音楽などのカルチャーに敏感な若者の回遊性が生まれ、人の流れや街そのものが激変した。
公園通り(1983年撮影、画像提供=パルコ)
井の頭通りと渋谷パルコをつなぐ坂は「スペイン坂」と名付けられた(2019年撮影)
パルコの開業で「文化度の高い街」のイメージが定着した公園通りだが、パルコ開業前の1969(昭和44)年には、「東京山手教会」地下に小劇場「渋谷ジァン・ジァン」(2000年閉館)がオープンし、既に通りには文化芸術に精通した若者が集まる一定の流れも生まれていた。
劇場を構えたのが地下だったことから、その名の通り「アンダーグラウンド」な芸術の発信地として熱心なファンを獲得したジァン・ジァンは、一人芝居や朗読劇などの演劇公演と音楽ライブを中心に、イッセー尾形さん、中島みゆきさん、故・忌野清志郎さんらを輩出。パルコ劇場や渋谷公会堂、NHKホールなどの大型施設と共存しながら、こうした独立系店舗が街の文化発信力を下支えしてきたのも、公園通りの大きな特徴の一つだ。
公園通りの東側に走る「ファイヤー通り」には70年代から80年代にかけて、雑貨やアパレルの店が次々と出店。雑貨店「文化屋雑貨店」は、渋谷パルコ開業翌年の1974(昭和49)年にファイヤー通り沿いに店を構えた。
グラフィックデザイナーとして3年ほど働いた長谷川義太郎さんが28歳で開業し、「デパートに行っても『売れる物』ばかりで、自分の欲しい物が無かった」と開店理由を語るように、文化屋雑貨店開業以降、周辺には百貨店などにはない品ぞろえで店主やスタッフの「個性」を前面に出した店が集まり出すようになる。
ファイヤー通り(2019年撮影)
1976(昭和51)年に原宿のわずか6.5坪の店でスタートした「BEAMS(ビームス)」が渋谷に進出、ファイヤー通りに出店したのは1977(昭和52)年。その後1981年にファイヤー通り裏手に移転。1993年には、現在も店を構える北谷公園横に「ビームス 東京」をオープンした。
原宿1号店出店の際、竹下通りから少し外れた場所で成功を収めたビームスは、神南でも「路面店」の魅力を打ち出す戦略に成功。買い付け品のセンスや品ぞろえを武器に、よりとがった感覚でアンテナを張る若者の心を捉え、セレクトショップブームをけん引。神南エリアでは、公会堂方面とファイヤー通りをつなぐ坂が「バスチーユ通り」と名付けられ、「アメリカンラグシー」や「ジャーナルスタンダード」(いずれも現在は閉店・移転)などが軒を連ねるようになった。
1989年に渋谷の「ビームス」店舗前で撮影されたスタッフの様子(画像提供=ビームス)
周辺には「アニエスべー」「ナイスクラップ」などの国内外ブランドや古着店なども集まり、渋谷随一のファッション集積地として発展を遂げたことで、80年代後半から90年代前半に掛けて世を席巻した「渋カジ(渋谷系カジュアル)」ブームの真っただ中、渋谷パルコや周辺百貨店などの安定した集客力も相まって、公園通りのブランド価値が高まっていった。
セレクトショップなどが集積する神南エリア(2019年撮影)
公園通りを中心とした街の「発信力」は、ファッションや芸術分野にとどまらず、1986(昭和61)年にはスペイン坂上に、後の渋谷ミニシアターブームの中核を担った「シネマライズ」が開館。公園通りを上りきった右手にある「明星公園62ビル」=通称「カフェビル」には、後のカフェブームを決定付ける人気店の一つ「カフェ・アプレミディ」が1999年にオープンし、チェーン店にはない「上質な時間」を求める客層の支持を集めるようになる。
タワーレコードのフリーペーパー「バウンス」の編集で名をはせた橋本徹さんが出店したアプレミディは、店名を冠したコンピレーションシリーズをリリースするなど、「カフェミュージック」市場も開拓。同ビルには和風スタイルのカフェの先駆けとなった「和カフェ yusoshi(ユソーシ)」なども出店し、カフェであれば「音楽」や「和」などのテイスト、シネコンが主流だった映画館もミニシアターにしかない「インディーズ感」が掛け合わされることで絶妙なミックスを生み、公園通りの「オトナ化」に拍車をかけた。
2000年代に入りインターネットの普及やデジタルツールの発展で、それまで一つのトレンドが大きなうねりとなり消費動向に影響を与えていた時代から、個人が発する情報にもスポットが当たるようになったことで、ファッションやクリエーティブの世界でも変革が起き始める。渋谷エリアには90年代末ごろから2000年代初頭にかけてITベンチャーが次々とオフィスを構え、サンフランシスコのITベンチャー拠点「シリコンバレー」になぞらえ、「ビットバレー」と呼ばれ始めた。
公園通りでは「Gapストア渋谷店」が1996年に開業して以降、大型店の流動はなかったが、2000年に「ユナイテッドアローズ渋谷公園通り店」がオープン。原宿のイメージが強かったセレクトショップの雄「ユナイテッドアローズ」が渋谷に進出したことで、先行して店舗展開を進めてきた「ビームス」などと合わせて人気セレクトショップが神南に出そろった。
2002年には、開業30周年に向け、渋谷パルコでも段階的にリニューアルが行われ、大人の食スタイルを提案する飲食空間やカップルで楽しめるユニセックスゾーンなど渋谷を訪れる消費者の感性の成熟度に合わせたMD(商品政策)で大規模改装が進められていた。一連のリニューアルに先駆け、スペイン坂入り口には同年春、「高感度ライフスタイル」の提案をうたう新施設「渋谷ZERO GATE」もオープンした。
「渋谷パルコ」30周年大改装ポスター(画像提供=パルコ)
情報化社会の象徴ともいえる「Apple」の国内4店舗目の直営店「Apple 渋谷」は、2005年にオープン。通りでは「エクセルシオールカフェ」など新興勢力の進出も目立ち、外国人観光客の増加も受け、公園通りを含め渋谷の街そのものが、国や世代、性別やテイストなどを超えた多様な価値観の共存を体現していた。
2000年~2010年代にかけては、2008年のリーマンショック、2011に起きた東日本大震災が社会に与えた影響も大きい。一方で、国内では2012年以降為替市場が円安に進むとともに、アジア圏の経済成長や航行技術の向上などを背景に訪日外国人観光客が増加の一途をたどり、観光客による「爆買い」が社会現象にもなるなどインバウンド市場が急成長。渋谷に訪れる観光客も増え続け、スクランブル交差点も観光地として世界に名をとどろかせるようになる。
そんな中、2016年8月7日、渋谷パルコは施設の建て替えを中心とした再開発に伴い、43年の歴史にいったん幕を閉じる。公園通りの集客の中心的存在として一翼を担ってきたランドマークが一時的とはいえ街から姿を消し、先行して2015年に同じく建て替えのため、閉鎖していた渋谷区総合庁舎と渋谷公会堂の影響も大きく、これらの建て替え計画が完了するまでの3年間、公園通りでは路面店の撤退やテナントの業態転換などが相次いだ。
渋谷パルコは2016年8月に建て替えのため一時閉店した
2017年5月には、「Gapストア」が約20年の歴史に終止符を打ち、並びで建て替え工事が進むパルコの様相も合わせ景観が大きく変貌。続くように「Apple 渋谷」も同年11月、リニューアルのため閉店し、2018年10月に復活するまでの約1年間不在に。撤退や一時閉店などの動きが連鎖する中、新たな大型施設の話題も。パルコや区庁舎の再開を見越すように、パルコ・パート2跡地でホテルの建設計画が明らかになったのだ。
カジュアルアパレル大手「ストライプインターナショナル」が手掛ける、ライフスタイル業態「koe(コエ)」のグローバル旗艦店とホテルが一体化した「hotel koe tokyo」は、計画発表から約1年後の2018年2月にオープンを迎え、ホテルや飲食店を併設した「衣・食・住」がそろう新業態の出店で、「ライフスタイル型」をうたう競合アパレルとの差別化を図っている。
渋谷パルコと交差点を挟んで向かいにオープンした「hotel koe tokyo」
ミニシアターブームを呼んだスペイン坂上の「シネマライズ」は2016年1月に閉館、跡には同年9月、スペースシャワーネットワークが経営するライブハウス「WWW X(ダブリュダブリュダブリュー エックス)」がオープンしている。
1964年の東京オリンピック開催を機に近代化への歩みを始めた公園通りは、2020年オリンピック開催を目前に控えた昨年から今年にかけて、半世紀の時を経て再び変革の時期を迎えている。
2018年も折り返しに入り、6月には旧「スワロフスキー」跡に、米アイウエアブランド「レイバン」の旗艦店となる国内初直営店がオープン。1年以上常設テナントが入っていなかった旧「Gapストア」跡には9月、大型総合スポーツ店「スーパースポーツゼビオ」の新店がオープンした。
閉店した「Gapストア」跡にオープンした「スーパースポーツゼビオ」
公園通り入り口には10月、ドラッグストア「アインズ&トルペ」の新店が出店。一時閉店していたApple渋谷も、増床する形で「帰還」した。2016年~2017年にかけて閉店が続いた通りが、パルコや区庁舎再開に照準を合わせ動き出した。
2019年、建て替え事業を終え、生まれ変わったランドマークが、次々とオープン。先頭を切る形で、渋谷区役所新庁舎が1月15日に開庁。区庁舎と一体的に建て替えを進めてきた渋谷公会堂は、ネーミングライツによる通称「LINE CUBE SHIBUYA」として10月13日にオープンを控える。
区庁舎はモバイルPCやオンライン会議の導入などのICT化といった新たな働き方、公会堂は「LINEチケット」や「LINE Pay」決済、ライブ配信「LINE LIVE」などの最新サービスをそれぞれ採用し、ハードだけでなくソフト面が大きく刷新された点も特徴だ。
通称「LINE CUBE SHIBUYA」として10月13日にオープンを控える渋谷公会堂
モバイルPCやオンライン会議の導入などICT化も進める渋谷区新庁舎
秋には渋谷公会堂、渋谷パルコの再開が間近に迫る中、公会堂向かいの老舗ドレス店「ドレスブラック」(昨年閉店)跡に、よしもとクリエイティブ・エージェンシー(新宿区)が手掛ける複合コミュニティースペース「Laugh Out(ラフアウト)」がオープンするニュースも飛び込んできた。開業日は7月20日で、コワーキングをはじめ、よしもと芸人が施設のコミュニティーに参加、コミュニティーラジオで放送局も開設するなど、クリエーティブ拠点も兼ねる新施設として「創る」をテーマに情報を発信していくという。
文化度の高さは維持しながらもファッションのイメージも根強かった公園通りは今、時代の潮流を反映するように、あらためて「モノ」から「コト」消費への側面を強めていると言える。ミクシィが2017年5月に開いた「XFLAG STORE SHIBUYA」が店を構えるのは、ファッションブランド「アルマーニエクスチェンジ」が出店していた場所だ。スマートフォンアプリRPG「モンスターストライク(モンスト)」などのゲームや映像コンテンツを手掛ける「XFLAGスタジオ」の新拠点で、カフェも併設。大型タッチディスプレーで商品紹介から購入まで対応するなど、単にモノを買う場所ではないサービスで自社製品をアピールしている。
「モンスト」などの情報を発信するカフェ併設拠点「XFLAG STORE SHIBUYA」
旧マルイシティ渋谷を2015年11月に全館リニューアルした「渋谷モディ」には同年4月、ソニー製品の情報発信拠点「Sony Square Shibuya Project(ソニースクエア渋谷プロジェクト)」がオープン。1~2カ月ごとに異なるテーマを掲げて企画展示を行い、製品のデモンストレーションや、来場者参加型のコンテンツ、エンターテインメントコンテンツと開発中の技術を融合させた体験型展示などを展開してきた。
「渋谷モディ」(写真右)にはソニー製品の情報発信拠点「Sony Square Shibuya Project」が入る
「モノ」だけでない「コト」の発信は、渋谷パルコが1973年の開業時から積極的に仕掛けてきた戦略の一つでもある。そこから約50年。再開する「新生」渋谷パルコに並べられる「モノ」や「コト」はどのように変化し、反対に、変わらないものは何か。
それを体現するのはまず、建築意匠そのものだ。新施設は、建築設計を竹中工務店が担当。公園通り、ひいては渋谷の特徴でもある「坂」と「通り」に注目し、スペイン坂上の路面から建物外周に沿って通路・階段をらせん状に10階までつなぐことで「立体街路」を形成。独自の文化を生み出してきた地形など、変わらないものに価値を置き続けながらも、遊び心のある設計で新たな動線を生み出す。
渋谷PARCO外観パース(スペイン坂方面より)©2019, Takenaka Corporation
牧山社長も「坂の上に文化は宿ると、皆さんが言ってくれた。それをリスペクトして、スペイン坂と(そこからつながる)外遊回路を上がると、劇場を通り抜けて広場体験ができる」と説明。外階段を伝い施設を上っていくことで、かつて坂を上り人々が渋谷パルコで体験した感覚を再現するような動線となるのかもしれない。
ソフト面はどうか。渋谷パルコが果たす役割として「インキュベーション」「まちづくり」「情報発信」の3点を掲げてきた牧山社長は「渋谷こそがパルコの原点そのもの」とし、「その原点の進化版、『原点進化』として新たに生まれ変わる」と自信をのぞかせた。「都市が心豊かになる非日常性を体験するエンタメがここにある。渋谷パルコがエンタメシティー=渋谷のへそとなりたい」とも話し、新生・渋谷パルコに懸ける思いは強い。
目新しい取り組みとしては、フロア構成の中心に据える5つの要素のうち「アート&カルチャー」軸の一部として、6階に「ジャパンカルチャーの聖地」を編成。任天堂の国内初の直営オフィシャルショップ「Nintendo TOKYO」やポケモンの新オフィシャルショップ「ポケモンセンター シブヤ」をはじめ、ゲーム「刀剣乱舞-オンライン-」初の公式ショップ「刀剣乱舞万屋本舗」、カプコンのアンテナショップなど国内のコンテンツホルダーが集結する。
6階に入るカプコンのアンテナショップ「CAPCOM STORE TOKYO」イメージ
商業施設における食空間の価値が年々高まりを見せ、「勝ち負けが決まる」(パルコ)とも捉え力を入れる「フード」は、メインレストランフロア「CHAOS KITCHEN(カオスキッチン)」を地下1階に開設し、ミシュラン掲載店の新業態から、うどん、ジビエ・昆虫料理、純喫茶まで、多様なジャンルの21の飲食店を誘致。フードは上層階などにも展開する。
渋谷PARCO地下1階共用部 ©Sou-Fujimoto-Architects
「レパートリーを広げ強化する」という「ファッション」軸の中でも、力を入れる分野の一つ、ラグジュアリーブランドは1階・2階に集積。「グッチ」「ロエベ」や「アレキサンダーワン」「エムエムシックスメゾンマルジェラ」などのブランドをはじめ、「ディオール ビューティ」などのコスメを充実させたのも特徴。施設全体で、モード、ストリート、カジュアル、ビンテージなど「東京」の多様なジャンルを代表する約100店を集積する。
「デジタル」分野では、ECを併設し従来より小さな店頭在庫数で展開するオムニチャネル型売り場や、パルコと「CAMPFIRE」が共同出資するクラウドファンディング「BOOSTER」と連携し、IoT製品など世に出る前のデジタル製品やアイデアを「展示」する実証実験型AIショールームなどを編集。「唯一無二」を掲げるだけあり、そのほかにもまだ引き出しは豊富だ。
旧渋谷パルコ・パート1とパート3に加え、周辺街区を含む再開発事業として建て替えに着手した施設は、地下1階~地上8階・10階の一部を商業ゾーンとするほか、10階の一部と12階~18階にはオフィスが入居する。周辺の歩道や敷地内の広場を一体的に整備し、ビル内には地域荷さばき場や駐輪場も整備される。
11月下旬のオープンに向け建設が進む渋谷パルコ(2019年6月撮影)
取り壊し前に渋谷パルコ・パート1とパート3の間にあった道路は、ペンギン通りとオルガン坂をつなぎ、24時間通れる2層吹き抜けの歩行者専用通路として生まれ変わり、名称は「サンドイッチ通り」から「ナカシブ通り」に改める。屋外広場では地域と連動したイベントや、ファッションショー、音楽、フードイベントなど幅広い分野のイベントを開催し、ハード・ソフト両面から街の活性化に貢献していきたい考えだ。
24時間通れる2層吹き抜けの歩行者専用通路「ナカシブ通り」 ©2019, Takenaka Corporation
1973年の渋谷パルコ開業以降、力が注がれてきた公園通りの景観づくりについても触れなければいけない。通りには、スズラン形の街灯や街路樹、赤い電話ボックスが配され、以降も商店街振興組合は歩道のレンガ化や区役所前駐車場、常設有料荷さばき専用スペースの整備などに取り組んできた。現在、老朽化した街路灯はスズラン形から姉妹都市であるNYパークアヴェニューの街路灯と同じものに変わり、きれいに管理されたプランターが車道と歩道の境界線の役目を果たしている。
前出の同組合・小松原理事長によると、あえてゴミ箱を置いていない公園通りは、1日に2回以上清掃を行い、落書きなどはすぐに消去。クリーンな景観を保つための施策を長年続けてきた。ゴールデンウイークには恒例にもなった国際ガーデニングコンテストを開催。国内外のガーデナーが歩道のプランター20カ所を彩り、作品はコンテスト終了後も植栽を継続。ミニサイズで渋谷の街を表現したり、多肉植物を取り入れたりするなど、独自の創造力と技で造られた「庭」が歩行者の目を楽しませている。
落書きなどはすぐに消去しクリーンな街並みを保っている渋谷公園通り
ガーデニング作品の発表の場にもなっている歩道のプランター。ミニサイズで渋谷の街を表現したものも
パルコ不在の間、年末に200万人以上の来場者を集める人気イベントも誕生した。協賛する日清フーズのシリーズ商品「青の洞窟」のプロモーション企画として、初開催の目黒川沿いから2016年に公園通り周辺に舞台を移したイルミネーション「青の洞窟SHIBUYA」だ。西武渋谷店(宇田川町)前付近から代々木公園ケヤキ並木までの約800メートルを約60万個の青色LED電球で装飾。ケヤキ並木約300メートルの路面には「ミラーマット」を敷き、LEDの光を反射させることで洞窟のような雰囲気を演出し、青色の幻想的なイルミネーションが公園通りの冬の風物詩にもなりつつある。
3年連続で開催され人気イベントに成長したイルミネーション「青の洞窟SHIBUYA」
多種多様な文化や流行に取り巻かれながらブランディングされてきた渋谷文化村通り。通りや周辺に拠点を構える店や施設などが互いに影響を与え合いながら時代に合わせバトンをつなぎ、渋谷エリアの中でも独自の発信力を持つまちが形成されてきた。
小松原理事長は、東武ホテル裏手に「神南小学校」、坂の上に代々木公園、通り沿いに東京山手教会など、「古くから学校や自然、教会に囲まれた地域であることも、まちの品位を保つ大きな一因になっている」と話す。
渋谷公園通り(1983年3月撮影、画像提供=パルコ)
新生パルコのキャッチフレーズのように、「原点」を継承しながら「進化」する公園通りの今後に注目していきたい。