春には桜が街を彩り、常連客らが話に花を咲かせる大衆居酒屋、ジャズ喫茶や楽器店から流れてくる音楽――渋谷エリアの中でも、「昭和」の面影をそこここに残す桜丘町で、これまで数十年にわたり客を出迎えてきた多くの店が10月いっぱいで、その歴史に幕を閉じる。
同エリアでは今後、ビルの取り壊しが進み、大規模再開発に向け大きくかじが切られる。消えゆく街の「記憶」を写真と共に特集する。
国道246号(以下、246)に架かる歩道橋を渡ると広がる桜丘町には、道玄坂やセンター街周辺など華やかなイメージのある渋谷の側面とは異なる昔ながらの風情が漂う。流行発信地や若者の街としてもにぎわってきた渋谷の中で、昭和を感じさせる古い街並みが残されてきた背景には、交通量も多い幹線道路が駅と街を分断してきた立地の影響が大きい。
渋谷駅西口歩道橋から見た桜丘町方面。国道246号線が下を走る
駅前にあり住宅が多かった桜丘町には、戦前から食料品や雑貨を扱う商店が立ち並び、当時から焼き鳥店や居酒屋など小さな飲食店も店を構えた。街の風景が大きく変わったのは、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催に伴い246が開通してから。区画整備で細い路地は少なくなったものの、駅との分断でガラパゴス化したことが、急速な開発の波から昭和の街並みを「守った」ともいえる。
246から「さくら通り」に向かって街路を歩くと、雑居ビルなどと共に目に入ってくる「青果・製氷 高野商店」と書かれた、年季の入った看板。この地で約70年にわたり営業を続けてきた「高野商店」は再開発に伴い10月末で閉店する。
青果・製氷店「高野商店」店主の高野三郎さん(80)
年季の入った看板が昭和の風情を残している
昭和の初めごろに恵比寿で製氷店として創業した同店は、その後、渋谷駅近くでの営業を経て、戦後、桜丘町に同店を構えた。「桜丘町は空襲を逃れて焼け残った。僕が小学生の頃にここに来た」と話すのは店主の高野三郎さん(80)。「当時から渋谷川はきれいじゃなかったが、トンボを捕ったり、天現寺辺りには大きなコイも泳いでいたりした」と、自然が残るかつての渋谷の風景を懐かしむ。
その後、高野商店からさくら通りまでの通りには小さな商店がいくつも集まったという。「(高野商店の)隣は焼き肉の南海、ラーメン屋、向かいには豆腐屋、楽器屋の所は八百屋、それから米屋、酒屋もあった」と言い、「みんな出て行ったり、亡くなったりして変わっていった。この辺りで僕よりも年上は一人だけ(笑)」とまちの変遷を振り返る。
「高野商店」や雑居ビルなどが並ぶ桜丘なじみの風景も見納めに
専業だった氷店から青果を扱うようになったのは30年以上前にさかのぼる。「今から37~38年前、桜丘にあった『大和田青果』が駅前に移転するのに伴い、(大和田青果の店主も含め)みんな自分の後輩だから、桜丘町で(青果店を続けるのは)どうか」と話が持ち上がり、青果も扱い始めたと言う。都会のど真ん中でこうした近所付き合いが見られるのも、このエリアの特長だ。
再開発については、「仕事を辞めるのは正直寂しい」と漏らしつつも、「この年なので、閉店後はゆっくりと過ごしたい」と話す。2023年の工事終了後は地権者として新しいビル内に店を所有するが、商売を続けるかどうかは未定。健康の秘訣(ひけつ)は、「お酒(笑)、いやいや野菜」と笑顔を見せる。
値頃感のある中華定食などを提供しファンも多かった「食堂 かいどう」
高野商店のほかにも、今の店が入るビルが建つ前からこの地で営業を続け、庶民的な価格でラーメンや定食などを提供してきた「食堂 かいどう」の趣のある半地下の食堂空間も再開発で姿を消す。1967(昭和42)年、「笛吹童子」などの作曲家で尺八奏者としても知られる福田蘭童が開業した小料理店「しぶや 三漁洞(さんぎょどう)」も、51年の歴史にいったん幕を閉じる。
元クレージーキャッツの石橋エータロー夫人・光子さんがおかみを務める「三漁洞」
51年間変わらないという「三漁洞」店内
蘭童の長男で元クレージーキャッツの石橋エータロー夫人である光子さんが、おかみとして店を切り盛りする三漁洞。「51年間、全く変わらない」と話す店内は、カウンターや小上がりの座敷から成る和風の造りで、当時蘭童と親交があり「舞台美術の巨人」と呼ばれた伊藤熹朔(きさく)が手掛けたもの。
「営業」を知らせる入り口。光子さんは「再開発後も戻って来たい」と話す
慣れ親しんだ光景は変わるが、「来年春、桜が咲く頃に同じ桜丘町で仮店舗を開きたいと思い、今、物件を探しているところ」と話し、「5年後、再開発が終わって新しいビルが建つまで、何とか元気で頑張って、大好きなここに戻って来たい」と、新たな夢に期待を膨らませる。
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246沿いに店を構える「上州屋」(写真左奥)、ラーメン「亜寿加」(中央)、「三漁洞」と「イケベ楽器」(右)
楽器店やライブハウス、ジャズ喫茶などが点在し、「音楽の街」としての顔も持つほか、40年にわたり桜丘で営業を続けてきた釣り具専門店「上州屋」や卓球専門店「国際卓球」に通う常連客も多いなど、「趣味」のためにまちを訪れる人からも親しまれてきた同エリア。昭和を思い起こさせる昔ながらの飲食店で飲むことを趣味としてきたまちの「ファン」もいるだろう。
木製カウンターがロの字形に配され、客が所狭しと立つ活気ある店内で、隣り合わせた初対面同士の間にも自然に会話が生まれる…そんな人情味のある「立ち飲み文化」が長年客を魅了してきた立ち飲み居酒屋が「富士屋本店」だ。
「富士屋本店」店内。客が所狭しと立ちにぎわいを見せる
大衆的な値段の小料理などのメニューが並ぶ
「ハムキャベツ」「煮込みハンバーグ」など、主に200円台~300円台で提供する小料理や、レモンと焼酎、炭酸を客の好みの味で楽しめるレモンサワーセットなどのメニューは、注文ごとに支払いをする代金引換制で、ちょい飲みや一人飲みでもフラッと立ち寄れる気軽さもあり、桜丘の魅力を語る上で欠かせない店の一つでもあった。10月末の閉店を前に最後に店を訪れようとする客も後を絶たず、「立ち飲みの聖地」は連日混み合っている。
「崖の上のヤマハ」とも称された旧「渋谷エピキュラス」
氷・青果店「高野商店」脇の坂道を登り、二股でさらに急になった坂を登ると姿を現す旧「渋谷エピキュラス」は、「音楽の街」桜丘を象徴する、ヤマハ音楽振興会のかつてのレコーディングスタジオ。1975(昭和50)年にボーリング場跡地に開かれ、数々のプロミュージシャンのレコーディングや小規模なコンサート会場としても人々が足を運んだ。「崖の上のヤマハ」とも称された施設はその後、スタジオの移転に伴い、「ヤマハエレクトーンシティ渋谷」にリニューアル。今年に入り40年以上の歴史に幕を閉じた。
ジャズ喫茶ブーム全盛期にオープンした「メアリージェーン」
渋谷エピキュラスと同時期に、桜丘に店を構えた「Mary Jane(メアリージェーン)」は、往年の「ジャズ喫茶」ブームの面影を残す老舗喫茶店。1960~70年代、コーヒー代で高音質のジャズが聴けるジャズ喫茶が若者たちの間で大流行し、渋谷にも当時人気を博したジャズ喫茶が集積。1972(昭和47)年4月、ブーム全盛期の中で、大学を卒業したばかりの初代マスター福島哲雄さんがメアリージェーンを開いた。現在は2代目で現マスターの松尾史朗さんが店を引き継ぐ。
当時スタンダードやモダンジャズに特化した店が主流だったのに対し、「フリージャズ」を積極的に取り入れたほか、「シャンソン」「レゲエ」など、ジャズにこだわらないオールラウンドな選曲は他店とは「異質」。その後、喫茶から「カフェ」文化へとトレンドが変わり、ジャズ喫茶が次々と姿を消していく中、調理スタッフを加え食事メニューを拡充するなど時代に合わせた店づくりを進め、46年にわたりこの街で音楽を奏で続けてきた。
「昔は店前にビルもなく、窓から山手線のホームがよく見えた」という店内
ジャズにこだわらないオールラウンドな選曲も魅力の一つ
楽器店やライブハウスも多い。1983(昭和58)年に桜丘町に最初の店をオープンし、現在は周辺に10店舗以上を展開するイケベ楽器店をはじめ、KEY渋谷店、宮地楽器やB’zのギタリスト松本孝弘らを顧客に持つギターショップ「G' Seven Guitars(ジーセブン・ギターズ)」(7月に曙橋に移転)などの店が点在。2003年にはライブハウス「渋谷RUIDO(ルイード)K2」がオープン。ルイードよりも先の約20年前にオープンしたライブハウス「SHIBUYA DESEO」は11月末で同所での営業を終了し、道玄坂「O-EAST」「duo MUSIC EXCHANGE」の並びに12月、新店を構える。
線路沿いにもギターショップ「ジーセブン・ギターズ」などが店を構えた
都内の他エリアや大阪にも出店するイケベ楽器同様、全国に系列店があり他店にも足を運べるにもかかわらず、桜丘に通い続けたファンが多い店の一つが、釣り具専門店「上州屋渋谷店」。釣り具小売り大手の上州屋が1979(昭和54)年5月、246沿いにオープンした同店は、駅から近い立地や豊富な品ぞろえから、釣り愛好家らに親しまれる店に。
駅に近く豊富な品ぞろえから常連客も多かった「上州屋渋谷店」
2010年3月、旧「JTB渋谷支店」跡に出店した書店「あおい書店渋谷南口店」も、10年に満たない営業期間ながら、SNSなどでも閉店を惜しむ声が多く聞かれる。1982(昭和57)年に上州屋の入るビルの並びに出店した「国際卓球渋谷店」は、再開発を受け8月に道玄坂に移転した。
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渋谷駅南西部に広がる2.6ヘクタールの広大な敷地で、東急不動産が地権者・事業協力者と共に進める、同エリアの大規模再開発事業「渋谷駅桜丘口地区第一種市街地再開発」。2014年6月に東京都が都市計画を決定し、桜丘町から代官山町に抜ける幅員15メートルの道路「補助線街路第18号線」などのインフラ整備を含め、2023年度をめどに事務所や店舗、住宅、生活支援施設などが入る4棟を建設する計画だ。
同町の商店会「渋谷駅前共栄会」副会長の佐藤勝さんは、35年にわたり渋谷を見続けてきたこの街の「住人」の一人。21歳で渋谷の不動産会社に勤め始め、36歳で独立して桜丘にオフィスを構えた。「(駅から)分断されていたため、渋谷の他のエリアの中では、店を出すにもオフィスを構えるにも比較的家賃が安くて済んだ」と、賃料の安さが生んだ桜丘特有の「土壌」について説明する。家賃相場は「246を渡るか渡らなかいで3分の2は違った」。
「高野商店」裏手。補助線18号計画地では以前から準備が進められてきた
「マンションも最初は住居用に作っていたが、オフィス需用が増えて、ベンチャーのはしりみたいな人は増えてきた。最初は富士屋本店のビルのオフィスの一室から始まったベンチャーも、その後みるみる大きくなった」と、自身が仲介した企業もあったと言う。
「渋谷エピキュラス」の麓付近。3番地は懐かしい景色が多く残されている
「大きな開発から逃れた良さもある。悪くいえば、取り残された」同エリアで、今後進む再開発については、「桜丘の再開発(の話)はもう30年くらい前から。僕は10年前から関わっていて、高野商店の先の『3番地』と呼んでいるエリアだけでなく、駅前の富士屋本店や上州屋あたりの1、2番も含めて一緒に大きなビルを造ったらどうかとなって、一気に再開発の話が加速した」と経緯を明かす。
再開発は、これまで駅との分断が街の明暗に大きな影響を及ぼしていた桜丘へのアクセスを飛躍的に向上させる。計画では、地区玄関口のランドマークとして、駅と街、地下と地上を簡便に結び付ける歩行者動線「アーバン・コア」を整備。さらに、渋谷駅西口歩道橋を拡幅し架け替え、246を南北方向に渡れるデッキを中心に、JR線の頭上を東西方向に横断する東西通路も開通。駅や渋谷ストリーム(駅南街区)との動線を確保する。
再開発では長年の地域分断や高低差の解消も図る(写真提供=東急不動産)
幹線道路や線路などによる長年の地域分断を解消し、駅と周辺市街地との回遊動線を生む今回の再開発について、佐藤さんは「まちの悲願」と歓迎する。「五輪の時にも、(当時の地権者らが)こちら側に改札をという要望は出したのでしょうけど、それはかなわず。JR新南口の改札ができるときにも、町会を中心に反対側(桜丘町側)にも改札口が造れないかと運動したと聞いているが、結局だめだった」と、要望が持ち上がっては断念してきた歴史を振り返る。
西口デッキの整備で駅とのアクセスは飛躍的に向上する
再開発では、新たに整備する補助線18号の上空にも幅の広い歩行者デッキ(横断橋)を架け、丘陵地・桜丘と駅との高低差を解消。代官山・恵比寿方面へのアクセス向上も期待される。一連の再開発は、「『取り残された』ことで地権者も多くいたし、住んでいる人もたくさんいる。理事会の中でまちに対するいろいろな声を互いにぶつけ合って、民主的に進められてきた」。「公開空地(公園)も整備するなど、代官山・恵比寿にもつながる新しい情報発信の場になる」と信じている。
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1964年に開かれた東京五輪と、2020年に開催が迫った東京五輪。インフラ整備や都市開発に大きな影響を与える五輪との「縁」が50年以上の時を経てまた、このまちを変える。都市計画決定時は2020年を予定していた再開発の完成は、「五輪が決まり、資材や人材の建築コストがすごく上がってしまった」(佐藤さん)ことなどが原因で、2023年に持ち越しになったが、「無理して急ぐよりは、(まちを)じっくりゆっくりつくろう」と前向きに捉える。
2023年度をめどに4棟が整備される(写真提供=東急不動産)
桜丘といえば、春になると「さくら通り」の坂を彩る桜並木の景色を思い浮かべる人もいるだろう。街のシンボルとも言えるこの通りは、再開発エリアにはかかっていない。7本の桜の木は1991年に道玄坂から移植されたソメイヨシノで、住人の間で「桜丘町という地名なのに桜がないのはおかしい」と、道玄坂で撤去が決まった桜を引き取り、かつての柳並木が桜並木に変わったという。
再開発工事中も「まちは生きているから、桜丘町のにぎわいづくりを続けていきたい」と、毎年花見の時期に開催している「さくら祭り」は来年も継続。「もうすぐ、まち自慢のイベントも計画している」と周辺商店会も結束している。
まちを象徴する桜並木には、再開発工事中も花が咲き続ける
「渋谷駅の隣に桜が咲く街がある。『渋谷の縁側』のような、ここに来るとホッとする空間でありながらも、世界最先端のIT技術の企業などが入居してくれればと思う。今までの再開発にない温かいもの。参加型の、ここで暮らしたい、ここで働きたい、ここに行きたいと思ってもらえるような街にしたい。それが夢」と、50年、100年先の未来を見据える。